フレーゲからラッセル、ヴィトゲンシュタインへ【終】
ばじるちゃん「よし、それじゃあまずはフレーゲのつみ残しからやっていきましょう」
ゆるふわ先生「【命題関数】と、【意味と意義】の話だね」
ばじるちゃん「命題関数は正直もっと前にやった方が良かったんだけれどね。論理空間の理解につながりやすくなると思うから」
ゆるふわ先生「何故ベストを尽くさないのか」
ばじるちゃん「長くなりすぎると思ったからよ。こうなったら【その1.5】あたりに無理矢理でも挿入しておけば良かったかしら……」
ゆるふわ先生「まあでも、どうせ教えてくれるんでしょ」
ばじるちゃん「ん、気が向いたからね。ところでノコッチは、命題関数って聞くとどういうのを思い浮かべる?」
ゆるふわ先生「どういうのが思い浮かぶか……うーん、命題が、一次関数とか二次関数みたいに……ワカンネ」
ばじるちゃん「うん、それは多分【関数】が何かを把握してないからね」
ゆるふわ先生「一次関数とかなら分かるんだけどなあ。じゃあ関数って何って聞かれると、確かに分からん」
ばじるちゃん「関数っていうのはライプニッツの提唱した式のことよ。一番身近で分かりやすいモデルは
y=f(x)
だと思う。つまり、xに何かを代入すれば、yの値が決定する式」
ゆるふわ先生「うーん……」
ばじるちゃん「ピンとこない?例えば
y=2x
だと、
x=1 のとき y=2
x=2 のとき y=4
って風に、xが決まればyの値も定まるでしょ?」
ゆるふわ先生「うん」
ばじるちゃん「一次とか二次っていうのはあくまで種類。関数というのは本質的に、片方を決めればもう片方も決まるという式のこと……まだ分からない?」
ゆるふわ先生「いや、なんとなくは分かるんだけど……自分の中に飲み込みがたいなにかがあるというか……」
ばじるちゃん「これ以上噛み砕くのは難しいな……。取り敢えず話を先に進めるわね」
ゆるふわ先生「うぃっす」
ばじるちゃん「命題関数はこの関数の概念を命題に適用したものよ。あっ、それとこの関数の考え方だけれど、プログラミングやるときなんかに役に立つかもね」
ゆるふわ先生「プログラミングで関数役に立つんだ」
ばじるちゃん「というか、関数を使って色々するのがプログラミングだし」
ゆるふわ先生「ほへー」
ばじるちゃん「まあでも、プログラム組んでSIerになってるノコッチなんて想像つかないな……」
ゆるふわ先生「僕も自分で想像つかない」
ばじるちゃん「自分のPCをformat:Cするくらいだもんね」
ゆるふわ先生「あれは一時の気の迷いというか、無知は身を滅ぼすというか……節穴さんにも何度引っかかったことか……」
ばじるちゃん「そこまでバカ正直だと、もうノコッチがアガサ・クリスティーやコナン・ドイルの小説に出てきても驚かないと思うわ」
ゆるふわ先生「うわー出たくねえ」
ばじるちゃん「勿論作中の役割はヘイスティングズ卿か、あるいはワトソン君だけれど」
ゆるふわ先生「絶対死なないキャラじゃん。強い」
ばじるちゃん「確かに。話を戻すわ。命題関数についてね。ここでもう一度、フレーゲにご登壇いただきましょう」
ゆるふわ先生「おお、久しぶりのフレーゲ」
ばじるちゃん「彼は命題関数という概念を発明するにあたって、文脈原則を打ち立てた」
ゆるふわ先生「文脈原則」
ばじるちゃん「文で使われる言葉の意味は、その文脈によってのみ決定されるという原則よ」
ゆるふわ先生「え、ちがくね」
ばじるちゃん「いきなり否定とは珍しいわね。どうしてそう思うの」
ゆるふわ先生「うーん……いやだってさ、言葉って元々ある程度の意味はあるじゃん。そりゃ、文脈によってある程度意味が変わったりするかもしれないけど」
ばじるちゃん「確かに、元々ある程度の意味はあるでしょうね」
ゆるふわ先生「じゃあ文脈によって言葉の意味が決定されるって、おかしくね?」
ばじるちゃん「ここで言いたいのは『ある程度の、漠然とした意味が決定される』なんてあやふやなものじゃないわ。言葉の厳密な意味や対象が、文脈によってしか決定されないとしたの」
ゆるふわ先生「ふむ……あーそれなら確かに、文脈必要かも」
ばじるちゃん「分かってくれたかしら。一応例を挙げてくわ。『ノコッチは天才である』」
ゆるふわ先生「うん、その『天才である』の厳密な意味は文脈あってこそだね」
ばじるちゃん「そして、文脈によって言葉の意味が規定されるということは、これを数学的に表すなら『xやyの値は、y=f(x)という式があってこそ決まる』ということになる」
ゆるふわ先生「……?」
ばじるちゃん「y=f(x)って式が文脈。xとyがそれぞれ言葉に対応してるのよ」
ゆるふわ先生「ああ、言葉(xやy)の意味は文脈(y=f(x))によって決まるのか」
ばじるちゃん「そうそう。だからこそ『AはBである』という命題は『y=f(x)』という式と事実上等しくなって、ここで命題は関数となる」
ゆるふわ先生「本当だ。命題が関数になった」
ばじるちゃん「これを論理空間と繋げるわね。まずy=f(x)という式に、xをこれでもかというくらい代入します」
ゆるふわ先生「関数を機能させるわけだ」
ばじるちゃん「……www」
ゆるふわ先生「なんで突然笑いだすんだよ。僕なんか変なこと言った?」
ばじるちゃん「ごめんなさいw 関数(function)が機能(function)するって、またノコッチらしい言い回しだなぁと思って」
ゆるふわ先生「えっ、あれ、これって同語反復なの。マジか、全く気付かなかった……」
ばじるちゃん「まあ確かに、知ってないと無理ないかもね。で、y=f(x)にxをこれでもかというくらい代入するんだけれど……それこそ、『世界の在り方の可能性が全て含まれる』くらいに」
ゆるふわ先生「おお、命題関数を機能させまくると論理空間が出来るのか」
ばじるちゃん「(ああ、まだその言い回し使うんだ……)そうね、だから命題関数は論理空間と密接な関係を持つことになるわ」
ゆるふわ先生「なるほどねー。で、これで命題関数が終わり?」
ばじるちゃん「そうなるかな」
ゆるふわ先生「じゃあ次は意味と意義の区別だ」
ばじるちゃん「こっちはアッサリ終わらせるわね。さっきノコッチ、同語反復って言葉使ったでしょ」
ゆるふわ先生「うん」
ばじるちゃん「それ、命題に関するテクニカルタームで【トートロジー】とも言うの。例えば『馬から落馬した』『頭痛が痛い』なんていうのがトートロジー」
ゆるふわ先生「落馬には馬って意味が既に含まれてるし、頭痛にも痛いって意味があるしね」
ばじるちゃん「ちなみに『違和感を感じる』ってあるじゃない。これは慣習的に使っても問題ないことになってるそうよ」
ゆるふわ先生「そうなのか。『違和感を覚える』でいいような気もするけど」
ばじるちゃん「私もそう思うわ。で、トートロジーの中でも、例えば『明けの明星は宵の明星である」なんていうのはどちらも金星を意味しているんだけれど」
ゆるふわ先生「金星だったのか。初めて知った」
ばじるちゃん「これ、『頭痛が痛い』とは違って、単なる同語反復よりも多くの情報量を持ってると思わない?」
ゆるふわ先生「持ってると言われれば持ってる……のかな」
ばじるちゃん「持ってるの。『同語反復はトートロジーである』って聞いたとき、へえって思ったでしょ」
ゆるふわ先生「まあ、ならなかったと言えば嘘になる」
ばじるちゃん「これも『宵の明星は明けの明星である』と同じで、要はそういうことよ。で、その違いを説明するために導入されたのが意義ってわけ」
ゆるふわ先生「つまり、意義には意味よりも多くの情報が含まれると」
ばじるちゃん「少なくともトートロジーにおいてはね。これでフレーゲのつみ残しの話はおしまい」
ゆるふわ先生「では、とうとう後期ヴィトゲンシュタインですか」
ばじるちゃん「とうとう後期ヴィトゲンシュタインです」
ゆるふわ先生「wktk」
ばじるちゃん「その前に、『論理哲学論考』を発表してからのヴィトゲンシュタインの話をしておこうかしら」
ゆるふわ先生「前期と後期の間か」
ばじるちゃん「論考で『語り得ないものについては、沈黙しなければならない』と告げたヴィトゲンシュタインは、その後哲学の世界から身を引いて、小学校で教鞭を取ることになったの」
ゆるふわ先生「あれ、哲学やらなかったんだ。しかも小学校の教師って」
ばじるちゃん「彼にとって、論考はすなわち、哲学的諸問題の解決を意味していたからね。論考の言葉を借りれば『問題は、その本質において、最終的に解決された』のよ」
ゆるふわ先生「論考で哲学の問題を解決したから、哲学をやめて教師になったのか……凄い生き様だ」
ばじるちゃん「そう。本来ならば彼の仕事はそこで終わりで、後は気ままに余生を過ごすだけのはずだった」
ゆるふわ先生「でも、後期ってことは戻ってきたんだよね」
ばじるちゃん「論考の不備に気が付いたからよ。きっかけはイタリアのとある経済学者の対談が元だったらしいわ」
ゆるふわ先生「不備あったんだ。きれーに証明されてるなと思ってたけど……」
ばじるちゃん「彼の前期の哲学って、命題を中心にした論理的な証明だったよね」
ゆるふわ先生「うん」
ばじるちゃん「これは命題という形式で『真偽を調べることが出来る』のが大前提になっていて、それゆえに科学的な言語を対象にしていたと言えるわ」
ゆるふわ先生「科学的な言語?」
ばじるちゃん「科学的っていうのは、実験や観察に基づいてアプローチをとること。この場合、命題はまさに、科学的に真偽を判定することになるのよ」
ゆるふわ先生「なんでだ」
ばじるちゃん「名は世界の構成要素でしょ」
ゆるふわ先生「構成要素だね」
ばじるちゃん「じゃあ世界の構成要素が組み合わさって出来る命題って、実験と観察で調べることが出来るじゃない?」
ゆるふわ先生「世界の構成要素は現実に存在するからか」
ばじるちゃん「そうそう。現実に存在するものは実験と観察で調べることができる」
ゆるふわ先生「んーでも、今の聞いてると、特に問題は無いように思えるけど」
ばじるちゃん「ところが、大有りだったの。少なくともヴィトゲンシュタインにとっては」
ゆるふわ先生「なんでだ……」
ばじるちゃん「命題は確かに科学的な方法に基づいてるけれど、そもそも科学という体系自体、日常の言語をベースにして出来上がるじゃない」
ゆるふわ先生「どういうこと?」
ばじるちゃん「【ニワトリが先か卵が先か】よ。一番最初のニワトリはニワトリの状態で存在したのか、それとも卵からだったのか」
ゆるふわ先生「うーん例えが良く分からないけど、ニワトリと卵ならそりゃ卵の方が先に生まれそうだけどなぁ」
ばじるちゃん「この例えは堂々巡りを意味することでよく使われるわ。でも、この例に倣って【言語が先か、科学の体系が先か】と言われれば」
ゆるふわ先生「そりゃ言語が先でしょ」
ばじるちゃん「そう。それこそが問題だった」
ゆるふわ先生「問題だったのか」
ばじるちゃん「なぜなら『AはBである』のような命題……科学の体系に基づく言語は、日常言語あってこそ生まれるものだから」
ゆるふわ先生「ムズいな……最初の文字は世界の構成要素を写すために発明されたんじゃないっけ」
ばじるちゃん「そうね。でもやっぱり、その前には日常言語があったわけで……そうね、例えば『このマンガは良くない』っていうのは、その時々で意味が変わるでしょ」
ゆるふわ先生「変わるのか」
ばじるちゃん「単に面白くないのかもしれない。表現上で倫理的な問題があるのかもしれない。もしかしたら、作画が下手な可能性だってあるし」
ゆるふわ先生「おお、意味が変わった」
ばじるちゃん「科学的な言語だとこうはいかないのよ。あらゆる名と命題は、世界と1対1で対応する必要があったから」
ゆるふわ先生「つまり前期の問題は、名や命題の前提になる、日常言語を考慮に入れてないことにあったと」
ばじるちゃん「そ。だから後期ヴィトゲンシュタインは日常言語を調べていくことになる。そして、その結果として提唱されたのが【言語ゲーム】よ」
ゆるふわ先生「言語ゲーム……LOLみたいなやつかな」
ばじるちゃん「ゲームと言われてすぐに具体的な娯楽ゲームが浮かぶあたり、浅はかと言わざるを得ないわね」
ゆるふわ先生「(これが普通だと思うけどなー……)」
ばじるちゃん「なによ、その何か言いたげな目は」
ゆるふわ先生「ナンデモナイデス」
ばじるちゃん「はぁ、まあいいけど。で、言語ゲームについてなんだけれど。例えば、そもそも”リンゴ”が”リンゴ”である根拠って何かしら?」
ゆるふわ先生「? リンゴがリンゴである根拠?」
ばじるちゃん「これは”リンゴ”っていう名前の話ね。”リンゴ”の名前はなんで”リンゴ”じゃないとダメだったの?」
ゆるふわ先生「なんでって、そりゃあ……なんでだろう」
ばじるちゃん「別に他の果物と区別さえつけば、”レンゴ”とか、”ノコッチ”って名前でも良かったと思わない?」
ゆるふわ先生「……まあリンゴがリンゴって名前である必然性はないかもしれない」
ばじるちゃん「言語はこういった『必然的ではないけれど、こういうことにしておきましょう』を基礎にして構築される、ヴィトゲンシュタインはそう考えたの。そしてこれは、ゲームにおいても同様のことが言える」
ゆるふわ先生「言えるのか」
ばじるちゃん「特にルールに関してね。さっきLOLの話が出たけれど」
ゆるふわ先生「出しましたね」
ばじるちゃん「championってキャラを操作して相手のタワーを破壊するゲーム……だっけ?」
ゆるふわ先生「大体そんな感じ」
ばじるちゃん「これだって、相手のタワーを破壊する必然性なんてどこにもないのよ。『そう決めたから、そうなってる』ってだけで」
ゆるふわ先生「ふむ、言われてみればそうかもしれない」
ばじるちゃん「でも、一度決めた以上、ゲームの操作は定められたルールによって規定されるようになる」
ゆるふわ先生「言語も同じか」
ばじるちゃん「そう。言語の操作も、その住んでいる場所、時間軸における生活形式によって規定されることになるわ。ゲームの操作がルールによって規定されるようにね」
ゆるふわ先生「なるほどなぁ」
ばじるちゃん「これに関して大森荘蔵という哲学者は『ヴィトゲンシュタインには是非将棋を教えたい』と言っていたわ。他にも著名な哲学者は数多くいるけれど、ヴィトゲンシュタインにこそ教えたいと」
ゆるふわ先生「そりゃまたどうして」
ばじるちゃん「だって他の哲学者は、例えばハイデガーだと『なぜここには無ではなく、駒があるのか』から考えようとして、指し始めてくれないから」
ゆるふわ先生「ひっでえ例えだwww」
ばじるちゃん「でも、ヴィトゲンシュタインならあくまでもルールの中で戦ってくれる。だって、ゲームはルールに基づいて行われなければならないと、きちんと認識しているから」
ゆるふわ先生「確かに。言語ゲームって言うくらいだし」
ばじるちゃん「そしてヴィトゲンシュタインは、この言語ゲームの考え方に加えて、もう1つ大きなタームを提唱したの。それが【家族的類似】」
ゆるふわ先生「なんかほんわかしてそうな名前だ」
ばじるちゃん「でもこれ、中身はえげつないわよ」
ゆるふわ先生「どうえげつないの」
ばじるちゃん「この考え方に従えば、あらゆる本質や概念は消失することになるわ」
ゆるふわ先生「やべえ」
ばじるちゃん「詳しく見ていきましょう。ほら、私たちって普段”本質”とか”概念”って単語を何の気なしに使うじゃない」
ゆるふわ先生「特に倫理政経の先生とかね。クリティカルに批判しろ!」
ばじるちゃん「クリティカルなクリティークww思い出させないでよww」
ゆるふわ先生「あのチープさはなんなんだろうな一体」
ばじるちゃん「西尾維新好きの中高生が使ってそうなフレーズよね……。まあ私は嫌いじゃないわ。で、本質に関してなんだけれど、家族の集合写真を思い浮かべてみて」
ゆるふわ先生「何人くらい?」
ばじるちゃん「そうね、6人くらい」
ゆるふわ先生「爺ちゃん婆ちゃん、お父さんとお母さん、僕と妹ね。思い浮かべました」
ばじるちゃん「このとき、家族それぞれで似たところってあるでしょ。例えばノコッチとノコッチのお爺ちゃんで目元が似ていたり」
ゆるふわ先生「うん。妹はお母さんと鼻の形同じだし」
ばじるちゃん「でも、家族全体の共通点は存在しない」
ゆるふわ先生「うん?……まあそういわれれば、全員が似てるってところは確かにないかも」
ばじるちゃん「にも関わらず、ノコッチはその家族の集合写真を『1つのまとまり』として認識できるでしょ」
ゆるふわ先生「出来るね」
ばじるちゃん「家族的類似とはまさに、この集合体のことを指しているわ」
ゆるふわ先生「……え、でもさ、これと本質の否定ってなんの関係があるの」
ばじるちゃん「共通点がないことそれ自体が本質の否定なのよ。じゃあゲームを例にとってみましょうか。ゲームという概念の本質を規定しようとします」
ゆるふわ先生「うむ」
ばじるちゃん「でも、ゲームと一口に言っても色々あるでしょ。トランプとか、野球とか、チェスとか、それこそLOLとか」
ゆるふわ先生「あるね」
ばじるちゃん「このとき、ゲームに含まれる集合体には、全てにあてはまる共通点なんて存在していない。チェスとテニスの共通点(1vs1)は野球に当てはまらないし、野球とサッカーの共通点(ボールを使う多人数対戦)はドラクエに当てはまらない」
ゆるふわ先生「そんなもんか」
ばじるちゃん「そんなもんよ。でも私たちは、これらを1つのまとまりとして捉えることができる。これが家族的類似であり、本質の否定。ヴィトゲンシュタインはこうして、昔から続いてきた本質についての問いにロンギヌスの槍を突き刺した。これはライルやオースティンのような、日常言語派へと続く系譜となるわ」
ばじるちゃん「これで長かったフレーゲからラッセル、ヴィトゲンシュタインにかけての話も終わりね。はぁ、結構喋った」
ゆるふわ先生「お疲れ様ー。次は何やるの」
ばじるちゃん「そうねー……現代はこれでちょっと満足したし、順当にソクラテスやプラトンあたりにしておこうと思うわ」
ゆるふわ先生「王道だ」
ばじるちゃん「哲学に王道なんてないのよ!」
ゆるふわ先生「ユークリッド!」
ばじるちゃん「よく覚えてるじゃない。感心感心」