ノコッチの哲学マップ

哲学に興味のある女子高生「怜奈」と普通の男子高校生「不破(あだ名はノコッチ)」が哲学について対談します

ソクラテスからプラトン、アリストテレスへ【その1】

ゆるふわ先生「今回はなにやるの」

 

ばじるちゃん「予告していた通りプラトン……ではなく。その1つ手前のソクラテスから入ることにするわ」

 

ゆるふわ先生「出た、ソクラテス

 

ばじるちゃん「倫理政経でやったもんね。ところで、今回はダイレクトに思想を紹介するんじゃなくて、ちょっと変わったやり方を取ろうと思うの」

 

ゆるふわ先生「ちょっと変わったやり方とは」

 

ばじるちゃん「私たち自身がソクラテスになることよ」

 

ゆるふわ先生「は?」

 

ばじるちゃん「ソクラテスが実際に行ったらしい議論について、原稿を用意してきたわ。私なりに大分改変したけれどね。今からこれを朗読するのよ、一緒に」

 

ゆるふわ先生「マジかよ」

 

ばじるちゃん「文句は受け付けません。ソクラテスに関する書物は実際に言葉にするのが一番面白いんだから。ちなみにノコッチは論駁される役目ね」

 

ゆるふわ先生「……はいはい。論駁されますよ」

 

ばじるちゃん「棒読みしたら怒るからね」

 

ゆるふわ先生「蹴られないよう善処シマス」

 

 

 

ゆるふわ先生「というわけでだ、ばじるちゃん君。何か聞きたいことがあれば、なんでも答えてみせるのだが」

 

ばじるちゃん「ええ、是非お願いします。私も当代一と誉れ高いノコッチさんに質問できることを嬉しく思っています」

 

ゆるふわ先生「殊勝な心がけだね」

 

ばじるちゃん「ですがその前に一つだけ。これから私がする質問に対しては、なるべく短く答えていただきたいと思うのです」

 

ゆるふわ先生「お安い御用だ。同じことを言うのに私より短く答えれる人など、誰もいないだろうからね」

 

ばじるちゃん「ありがとうございます。では早速質問なのですが、あなたはどういったことをしておられるのですか?というのもですね、例えば、漁師なら魚を獲るといったことをするでしょう」

 

ゆるふわ先生「するね」

 

ばじるちゃん「同じように、作家は本を書くことをするでしょう」

 

ゆるふわ先生「する」

 

ばじるちゃん「これと同じように答えていただきたいのです。ノコッチさんは一体どういったことをしておられるのですか?」

 

ゆるふわ先生「弁論家だ。それも、優れた弁論家なのだよ、ばじるちゃん君」

 

ばじるちゃん「弁論家ですか。ということは、弁論をするのですか?」

 

ゆるふわ先生「そうだ」

 

ばじるちゃん「なるほど。ところで、漁師は魚を獲るとき、まさに漁に関する技術を必要としますね?」

 

ゆるふわ先生「するね」

 

ばじるちゃん「医学は、医に関する技術を必要とします」

 

ゆるふわ先生「必要だとも」

 

ばじるちゃん「では、弁論家はこれと同じように、弁論にかんする技術を必要とするでしょう」

 

ゆるふわ先生「当然、必要だ」

 

ばじるちゃん「そこでお尋ねしたいのですが、弁論術というのは、いったい何に関する技術なのでしょう?」

 

ゆるふわ先生「どういう意味かね」

 

ばじるちゃん「例えば、医術というのは体を治したりといった、医療に関する技術ですね」

 

ゆるふわ先生「そうだ」

 

ばじるちゃん「また、体育術というのは体を動かす、運動に関する技術です」

 

ゆるふわ先生「犬に誓って、その通りだ」

 

ばじるちゃん「ではこの調子でいくと、弁論術というのは何に関する技術なのでしょう」

 

ゆるふわ先生「言論に関する技術だよ、ばじるちゃん君」

 

ばじるちゃん「ふむ。いえ、ありがとうございます。どうかこの調子で、残りの質問にも短く答えてください」

 

ゆるふわ先生「任せておきたまえ」

 

ばじるちゃん「さて、今の回答で、ノコッチさんが言論に関する技術を教えているということが明らかになりました」

 

ゆるふわ先生「明らかになったね」

 

ばじるちゃん「ですが、私にはまだ疑問に思えるのです」

 

ゆるふわ先生「何が疑問なのかね、ばじるちゃん君」

 

ばじるちゃん「というのもですね。弁論術が教えるその”言論”というのが一体なんなのか、私にはまだ掴めないのですよ――例えば、数学は数に関する言論と言えますよね」

 

ゆるふわ先生「言える」

 

ばじるちゃん「料理だって、見方によっては食べ物に関する言論と言えると思うのです」

 

ゆるふわ先生「確かに」

 

ばじるちゃん「だとすれば、弁論術の”言論”とは、いったい何に関する言論なんでしょうか」

 

ゆるふわ先生「簡単なことだ。一番重要で、一番善いものに関する言論だよ」

 

ばじるちゃん「一番重要で、一番善いものですか……」

 

ゆるふわ先生「その通りだ」

 

ばじるちゃん「ですが、一番重要で一番善いものというのは、他の弁論家の方々もおっしゃる通り、人それぞれではないでしょうか」

 

ゆるふわ先生「ほう?」

 

ばじるちゃん「簡単な思考実験をしてみましょう。ビル・ゲイツオバマ大統領、クルーグマンがいたとします」

 

ゆるふわ先生「タイムリーな例だね。ここは古代ギリシャなのだがね」

 

ばじるちゃん「この3人はそれぞれが、自分のしていることを最善だと信じているように思えるのです。ビル・ゲイツMicrosoftを最高の業績と確信しているでしょうし、オバマ大統領は黒人が大統領になったことを一番重要だと感じるかもしれません」

 

ゆるふわ先生「ふむ」

 

ばじるちゃん「クルーグマンは経済学の発展が一番善いことだと思っているかも。経済学を上手く使えば、困窮にあえぐ人々の多くを救えますから」

 

ゆるふわ先生「かもしれないね」

 

ばじるちゃん「となると、一番重要で一番善いものというのは、人によって変わってくることになりますが、それに関してはどうでしょうか」

 

ゆるふわ先生「確かに君の質問は最もだ。その上で、私もこう言わせてもらおう。弁論術がどんな言論に関するかと言えばね。それは、ほんとうの意味で最大の善いものなのだよ」

 

ばじるちゃん「えっと、それは――」

 

ゆるふわ先生「つまりはこういうことだ。人は弁論術を学ぶことによって、自分に自由をもたらし、また同時に、他人を支配できるようになるのだよ」

 

ばじるちゃん「……ノコッチさん、私の理解が正しければ、弁論術とは『説得する』ことに関する技術……ということなのでしょうか」

 

ゆるふわ先生「まさにその通りだよ、ばじるちゃん君。君は本当に正しく理解してくれるね。弁論術によって、法廷では陪審員を、議会では議員を、またその他、どんな集会でも人々を『説得する』ことができるのだよ」

 

ばじるちゃん「ありがとうございます。しかし、この場合でもやはり、私の中のわだかまりは残ったままなのです」

 

ゆるふわ先生「なんだね。言ってみたまえ」

 

ばじるちゃん「というのもですね。この『説得する』というのは、先程の”言論”という回答の上塗りに思えてならないのです。数学は数に関して『説得する』し、経済学は経済に関して『説得する』……そうじゃありませんか?」

 

ゆるふわ先生「なるほど」

 

ばじるちゃん「こうなるとまた、弁論術は一体何を『説得する』のか、ということになるのです」

 

ゆるふわ先生「そう疑問に思うのも当然だろう。よろしい、よく聞いておきたまえ。弁論術は正しいこと、あるいは不正なことに関して人々を説得するのだよ」

 

ばじるちゃん「……それは、弁論家が正しいこと、不正なことを知っているから?」

 

ゆるふわ先生「そういうことだ。しかし、補足しておかなければなるまい。この正しいこと、不正なことというのは、具体的な知識を指しているわけではないのだ」

 

ばじるちゃん「というと?」

 

ゆるふわ先生「例えば、私の前に医者がいたとしよう。彼は確かに、私よりも医学について多くの知識を持っている」

 

ばじるちゃん「ふむ」

 

ゆるふわ先生「しかし、人々にどちらが『良い医者』かを信じ込ませるとなれば、ゼウスに誓ってもいいが、私に軍配が上がるだろうね」

 

ばじるちゃん「それは、他には大工や料理の場合でも……」

 

ゆるふわ先生「同じことだ。いいかね、弁論術とはそういった『説得する』技術のことなのだよ。言ってみれば、ありとあらゆる力を一手に収めて、自分の下に従えているのだけれどもね。つまり『説得する』技術を使うことで、医者であれ実業家であれ政治家であれ――全ての者を意のままに操ることが出来るのだ」

 

ばじるちゃん「それはなんとも、恐ろしい力のように感じられます」

 

ゆるふわ先生「もっとも、弁論術を扱う際は注意しなければならない。いくら『説得する』技術があるからといって、それを使って味方を貶めてはならない。また、弁論を使って悪さをした者がいたとしても、それは使った当人が悪いのであって、教えた側や弁論術自体が悪いということにはならないのだ。丁度、ナイフで人を殺しても、ナイフを売った店やナイフ自体に責任が問われないのと同じようにね」

 

ばじるちゃん「なるほど……。ところで、ノコッチさんは学んでいる状態があることを認めますか?というのは、新しく知識を得たような場合です」

 

ゆるふわ先生「認める」

 

ばじるちゃん「同時に、信じている状態があることは」

 

ゆるふわ先生「それも認めよう」

 

ばじるちゃん「この2つは同じものでしょうか」

 

ゆるふわ先生「私には別のものに見えるね」

 

ばじるちゃん「ということは、『説得する』技術には、学ばせること、信じさせることの2つがあると言えそうです」

 

ゆるふわ先生「確かに」

 

ばじるちゃん「となると、弁論術の『説得する』技術はどちらの性質を有していることになるのでしょうか」

 

ゆるふわ先生「それは、信じ込ませる方だろう」

 

ばじるちゃん「私もそうだと思います。では、弁論術が正しいこと、あるいは不正なことを『説得する』技術であるということを踏まえれば、弁論術は正しいこと、あるいは不正なことに関して、相手を信じ込ませるということになりますね」

 

 ゆるふわ先生「どうしてもそうなるね」

 

ばじるちゃん「そしてそれは、具体的な知識があるわけではない」

 

ゆるふわ先生「そうだ。しかし、それはそれで便利だと言えるのではないかね。弁論に関する具体的な技術さえあれば、他のあらゆる専門家を凌駕できるのだから」

 

ばじるちゃん「いえ、私がどうにも疑問に感じているのはですね。弁論は医学や数学に関しても同じように、正しいこと、不正なことを『説得する』のか……つまり、弁論術を使う人たち自身は、正しいこと、不正なことについて知っているのかという点なのです」

 

ゆるふわ先生「もしも弁論術を学びに来る人々が正しいこと、不正なことを知らないのであれば、勿論それは私の方から教えることになるだろう」

 

ばじるちゃん「これはいいことを言ってくださいました。それでは、弁論術を教える方は、正しいこと、不正なことについて知っているのですね?何故なら、知らない場合であったとしても、あなた方から教わることになるのですから」

 

ゆるふわ先生「そうだとも」

 

ばじるちゃん「では、どうでしょう。音楽のことを学んだ者は、音楽家になるのではありませんか?」

 

ゆるふわ先生「なるね」

 

ばじるちゃん「野球を学んだ者は、野球選手になる」

 

ゆるふわ先生「なるだろう」

 

ばじるちゃん「だとしたら同じ理屈で、正しいことを学んだ者は、正しい人になるのではありませんか」

 

ゆるふわ先生「それはどうしても、そうなるだろうね」

 

ばじるちゃん「ところで、正しい人は正しいことを行うでしょうし、不正なことを行うのは望まないでしょう」

 

ゆるふわ先生「そうだね」

 

ばじるちゃん「そうなると必然的に、弁論の心得がある者は正しい人だし、したがって正しいことを行うのではありませんか?」

 

ゆるふわ先生「その通りだ」

 

ばじるちゃん「だとすると、弁論家はどんな場合であっても、不正を行うのは望まないでしょう」

 

ゆるふわ先生「それは必ずそうだ」

 

ばじるちゃん「しかしながら先程、こういうことが言われたのではありませんか?弁論が不正な仕方で使われたとしても、それは不正に弁論を使った者が悪いのであって、弁論術自体が悪いのではないと」

 

ゆるふわ先生「そう言われたね」

 

ばじるちゃん「ですが今、弁論家は決して不正を行わないということが明らかになりました」

 

ゆるふわ先生「明らかになったね」

 

ばじるちゃん「加えて最初の話では、弁論術は言論に関する技術であるが、それは正と不正について『説得する』ような言論だと言われていました」

 

ゆるふわ先生「そうだった」

 

ばじるちゃん「私は、弁論家は正しいことを知っているが故に、決して不正をしないと思っていたのです。しかし後になって、弁論家が不正をすることもあると言われたものですから戸惑ってしまって。この矛盾は一体どうしたことでしょうか。弁論家が弁論術を不正に使用するのは不可能なはずです。これについてもっと調べてみたいのですが、真相がどうなるかについては、ノコッチさん、到底少しの対談では片付かなさそうですね」

 

 

 

ゆるふわ先生「確かに言葉にした方が臨場感あった」

 

ばじるちゃん「でしょ?ちなみにこれは『ゴルギアス』って本の一部を、さらに圧縮したものよ」

 

ゆるふわ先生「『ゴルギアス』もこんな感じなの?哲学書ってもっと難しいと思ったけど、これなら僕でも読めそう」

 

ばじるちゃん「プラトン対話編は全部こんな感じの対話形式だから、ノコッチでも読みやすいと思うわ。『国家』なんかだと流石に難しいかもしれないけれど」

 

ゆるふわ先生「プラトン対話編?ソクラテスじゃなくて?」

 

ばじるちゃん「ああ、説明してなかったわね。ソクラテス自身は一切著作を残していないの。弟子のプラトンが『俺の師匠こんなこと言ってたぜ』っていうのを書物にしたのよ」

 

ゆるふわ先生「なるほど」

 

ばじるちゃん「ちなみにノコッチさんはゴルギアス役」

 

ゆるふわ先生「そうだったのかw」

 

ばじるちゃん「補足しておくと『ゴルギアス』では、この後も興味深いテーマで議論が交わされていくわ。『不正を犯して罰を受けたものと受けなかったものでは、罰を受けなかったものの方が不幸である』だとか、『いい年になってもずっと哲学にかまけてるような奴は、ぶん殴ってやらなければならない』とかね」

 

ゆるふわ先生「ぶん殴ってやらなければならないwww 面白そうだなあ。今度買っとこう」

 

ばじるちゃん「遂にノコッチも哲学書デビューか……さて、少し『ゴルギアス』に偏り過ぎたから、ソクラテス自身に関する話もしておこうと思うわ。【無知の知】についてね」

 

ゆるふわ先生「お、出た。無知の知だ」

 

ばじるちゃん「そもそもソクラテスがこうやってゴルギアスのような弁論家たちと問答をするようになったのは、【デルフォイ神託】を受けたからだと言われているの」

 

ゆるふわ先生「神託って聞くとまた胡散臭いな」

 

ばじるちゃん「”幸福の科学”の大川隆法も神の啓示を受けたらしいしね……ってそんなのはどうでもよくて。そこで受けたのは『ソクラテス以上の賢人はいない』ってものだったんだけれど」

 

ゆるふわ先生「そんなバカな」

 

ばじるちゃん「バカだと思うでしょ。ソクラテス自身もそう思った。だから色んな人と対話をして、神託の真偽を確かめようとしたの」

 

ゆるふわ先生「どうなったんだ。一番賢いっていうのが分かったの?」

 

ばじるちゃん「さっきの議論みたいなことになったのよ。ノコッチさんは結局、弁論術が何かについてちゃんと答えられなかったでしょう?」

 

ゆるふわ先生「そうかな。それっぽいことは言ってたと思うけど……」

 

ばじるちゃん「その『それっぽい』が曲者なのよ。ソクラテスは弁論術の他にも『正しいとは何か』『勇気とは何か』について議論を重ねていった。でも皆『それっぽい』答えばかりで、核心になる『それが何か』については答えることが出来なかった」

 

ゆるふわ先生「ふむ」

 

ばじるちゃん「世の中で賢いとされてる人たちは皆、それが何であるかについて正しい知識を持っていないのに、知っているものとして使ってる。ソクラテスだけが違ったの。彼は『正しいとは何か』『勇気とは何か』について、自分が『無知であることを知っている』と言った」

 

ゆるふわ先生「それで無知の知か」

 

ばじるちゃん「そう。結局ソクラテスは議論を重ねていくうちに、多くの人から嫌われて処刑されてしまうんだけれど。このときの裁判の様子は『ソクラテスの弁明』で克明に記されてるわ」

 

ゆるふわ先生「死んでしまうのか」

 

ばじるちゃん「獄屋で弟子たちに脱出を勧められるも、【悪法もまた法である】といって死刑を受け入れた話は余りにも有名ね」

 

ゆるふわ先生「貫徹した人だなぁ」

 

ばじるちゃん「でもその思想はプラトン以降に受け継がれていくし、何より知(ソフィア)を愛(フィロ)する……哲学(フィロソフィー)はソクラテスが初めに言った言葉なのよ」

 

ゆるふわ先生「え、ソクラテスってそんなに凄かったの」

 

ばじるちゃん「凄かったの。まあ私には、捻くれ者の爺さんにしか見えないんだけれど……」

 

ゆるふわ先生「おい消されるぞ」

 

ばじるちゃん「そりゃあ、確かにソクラテスは議論で負けなしだったよ?でも、そのスタンスがどうにも『セコいなあ』と思わされるのよね」

 

ゆるふわ先生「なんでさ」

 

ばじるちゃん「だって彼は『自分は無知である』って立場から議論をしてたから。自分は無知なんだから、これ以上貶められることはないでしょう?」

 

ゆるふわ先生「あー……確かに」

 

ばじるちゃん「逆に『知っている』って立場の相手には徹底的に攻撃することが出来る。1つでも知らないことがあれば、或いは『決定的には分かっていない』ことがあれば、そこから矛盾した回答を導けるし」

 

ゆるふわ先生「知っているはずなのに知らないって矛盾か」

 

ばじるちゃん「そう。でもこの話は一旦おしまいね。また長くなっちゃったから……。次はプラトンを見ていきましょう」

 

 

 

 

フレーゲからラッセル、ヴィトゲンシュタインへ【終】

ばじるちゃん「よし、それじゃあまずはフレーゲのつみ残しからやっていきましょう」

 

ゆるふわ先生「【命題関数】と、【意味と意義】の話だね」

 

ばじるちゃん「命題関数は正直もっと前にやった方が良かったんだけれどね。論理空間の理解につながりやすくなると思うから」

 

ゆるふわ先生「何故ベストを尽くさないのか」

 

ばじるちゃん「長くなりすぎると思ったからよ。こうなったら【その1.5】あたりに無理矢理でも挿入しておけば良かったかしら……」

 

ゆるふわ先生「まあでも、どうせ教えてくれるんでしょ」

 

ばじるちゃん「ん、気が向いたからね。ところでノコッチは、命題関数って聞くとどういうのを思い浮かべる?」

 

ゆるふわ先生「どういうのが思い浮かぶか……うーん、命題が、一次関数とか二次関数みたいに……ワカンネ」

 

ばじるちゃん「うん、それは多分【関数】が何かを把握してないからね」

 

ゆるふわ先生「一次関数とかなら分かるんだけどなあ。じゃあ関数って何って聞かれると、確かに分からん」

 

ばじるちゃん「関数っていうのはライプニッツの提唱した式のことよ。一番身近で分かりやすいモデルは

y=f(x)

だと思う。つまり、xに何かを代入すれば、yの値が決定する式」

 

ゆるふわ先生「うーん……」

 

ばじるちゃん「ピンとこない?例えば

y=2x

だと、

x=1 のとき y=2

x=2 のとき y=4

って風に、xが決まればyの値も定まるでしょ?」

 

ゆるふわ先生「うん」

 

ばじるちゃん「一次とか二次っていうのはあくまで種類。関数というのは本質的に、片方を決めればもう片方も決まるという式のこと……まだ分からない?」

 

ゆるふわ先生「いや、なんとなくは分かるんだけど……自分の中に飲み込みがたいなにかがあるというか……」

 

ばじるちゃん「これ以上噛み砕くのは難しいな……。取り敢えず話を先に進めるわね」

 

ゆるふわ先生「うぃっす」

 

ばじるちゃん「命題関数はこの関数の概念を命題に適用したものよ。あっ、それとこの関数の考え方だけれど、プログラミングやるときなんかに役に立つかもね」

 

ゆるふわ先生「プログラミングで関数役に立つんだ」

 

ばじるちゃん「というか、関数を使って色々するのがプログラミングだし」

 

ゆるふわ先生「ほへー」

 

ばじるちゃん「まあでも、プログラム組んでSIerになってるノコッチなんて想像つかないな……」

 

ゆるふわ先生「僕も自分で想像つかない」

 

ばじるちゃん「自分のPCをformat:Cするくらいだもんね」

 

ゆるふわ先生「あれは一時の気の迷いというか、無知は身を滅ぼすというか……節穴さんにも何度引っかかったことか……」

 

ばじるちゃん「そこまでバカ正直だと、もうノコッチアガサ・クリスティーコナン・ドイルの小説に出てきても驚かないと思うわ」

 

ゆるふわ先生「うわー出たくねえ」

 

ばじるちゃん「勿論作中の役割はヘイスティングズ卿か、あるいはワトソン君だけれど」

 

ゆるふわ先生「絶対死なないキャラじゃん。強い」

 

ばじるちゃん「確かに。話を戻すわ。命題関数についてね。ここでもう一度、フレーゲにご登壇いただきましょう」

 

ゆるふわ先生「おお、久しぶりのフレーゲ

 

ばじるちゃん「彼は命題関数という概念を発明するにあたって、文脈原則を打ち立てた」

 

ゆるふわ先生「文脈原則」

 

ばじるちゃん「文で使われる言葉の意味は、その文脈によってのみ決定されるという原則よ」

 

ゆるふわ先生「え、ちがくね」

 

ばじるちゃん「いきなり否定とは珍しいわね。どうしてそう思うの」

 

ゆるふわ先生「うーん……いやだってさ、言葉って元々ある程度の意味はあるじゃん。そりゃ、文脈によってある程度意味が変わったりするかもしれないけど」

 

ばじるちゃん「確かに、元々ある程度の意味はあるでしょうね」

 

ゆるふわ先生「じゃあ文脈によって言葉の意味が決定されるって、おかしくね?」

 

ばじるちゃん「ここで言いたいのは『ある程度の、漠然とした意味が決定される』なんてあやふやなものじゃないわ。言葉の厳密な意味や対象が、文脈によってしか決定されないとしたの」

 

ゆるふわ先生「ふむ……あーそれなら確かに、文脈必要かも」

 

ばじるちゃん「分かってくれたかしら。一応例を挙げてくわ。『ノコッチは天才である』」

 

ゆるふわ先生「うん、その『天才である』の厳密な意味は文脈あってこそだね」

 

ばじるちゃん「そして、文脈によって言葉の意味が規定されるということは、これを数学的に表すなら『xやyの値は、y=f(x)という式があってこそ決まる』ということになる」

 

ゆるふわ先生「……?」

 

ばじるちゃん「y=f(x)って式が文脈。xとyがそれぞれ言葉に対応してるのよ」

 

ゆるふわ先生「ああ、言葉(xやy)の意味は文脈(y=f(x))によって決まるのか」

 

ばじるちゃん「そうそう。だからこそ『AはBである』という命題は『y=f(x)』という式と事実上等しくなって、ここで命題は関数となる」

 

ゆるふわ先生「本当だ。命題が関数になった」

 

ばじるちゃん「これを論理空間と繋げるわね。まずy=f(x)という式に、xをこれでもかというくらい代入します」

 

ゆるふわ先生「関数を機能させるわけだ」

 

ばじるちゃん「……www」

 

ゆるふわ先生「なんで突然笑いだすんだよ。僕なんか変なこと言った?」

 

ばじるちゃん「ごめんなさいw 関数(function)が機能(function)するって、またノコッチらしい言い回しだなぁと思って」

 

ゆるふわ先生「えっ、あれ、これって同語反復なの。マジか、全く気付かなかった……」

 

ばじるちゃん「まあ確かに、知ってないと無理ないかもね。で、y=f(x)にxをこれでもかというくらい代入するんだけれど……それこそ、『世界の在り方の可能性が全て含まれる』くらいに」

 

ゆるふわ先生「おお、命題関数を機能させまくると論理空間が出来るのか」

 

ばじるちゃん「(ああ、まだその言い回し使うんだ……)そうね、だから命題関数は論理空間と密接な関係を持つことになるわ」

 

ゆるふわ先生「なるほどねー。で、これで命題関数が終わり?」

 

ばじるちゃん「そうなるかな」

 

ゆるふわ先生「じゃあ次は意味と意義の区別だ」

 

ばじるちゃん「こっちはアッサリ終わらせるわね。さっきノコッチ、同語反復って言葉使ったでしょ」

 

ゆるふわ先生「うん」

 

ばじるちゃん「それ、命題に関するテクニカルタームで【トートロジー】とも言うの。例えば『馬から落馬した』『頭痛が痛い』なんていうのがトートロジー

 

ゆるふわ先生「落馬には馬って意味が既に含まれてるし、頭痛にも痛いって意味があるしね」

 

ばじるちゃん「ちなみに『違和感を感じる』ってあるじゃない。これは慣習的に使っても問題ないことになってるそうよ」

 

ゆるふわ先生「そうなのか。『違和感を覚える』でいいような気もするけど」

 

ばじるちゃん「私もそう思うわ。で、トートロジーの中でも、例えば『明けの明星は宵の明星である」なんていうのはどちらも金星を意味しているんだけれど」

 

ゆるふわ先生「金星だったのか。初めて知った」

 

ばじるちゃん「これ、『頭痛が痛い』とは違って、単なる同語反復よりも多くの情報量を持ってると思わない?」

 

ゆるふわ先生「持ってると言われれば持ってる……のかな」

 

ばじるちゃん「持ってるの。『同語反復はトートロジーである』って聞いたとき、へえって思ったでしょ」

 

ゆるふわ先生「まあ、ならなかったと言えば嘘になる」

 

ばじるちゃん「これも『宵の明星は明けの明星である』と同じで、要はそういうことよ。で、その違いを説明するために導入されたのが意義ってわけ」

 

ゆるふわ先生「つまり、意義には意味よりも多くの情報が含まれると」

 

ばじるちゃん「少なくともトートロジーにおいてはね。これでフレーゲのつみ残しの話はおしまい」

 

 

 

 

ゆるふわ先生「では、とうとう後期ヴィトゲンシュタインですか」

 

ばじるちゃん「とうとう後期ヴィトゲンシュタインです」

 

ゆるふわ先生「wktk」

 

ばじるちゃん「その前に、『論理哲学論考』を発表してからのヴィトゲンシュタインの話をしておこうかしら」

 

ゆるふわ先生「前期と後期の間か」

 

ばじるちゃん「論考で『語り得ないものについては、沈黙しなければならない』と告げたヴィトゲンシュタインは、その後哲学の世界から身を引いて、小学校で教鞭を取ることになったの」

 

ゆるふわ先生「あれ、哲学やらなかったんだ。しかも小学校の教師って」

 

ばじるちゃん「彼にとって、論考はすなわち、哲学的諸問題の解決を意味していたからね。論考の言葉を借りれば『問題は、その本質において、最終的に解決された』のよ」

 

ゆるふわ先生「論考で哲学の問題を解決したから、哲学をやめて教師になったのか……凄い生き様だ」

 

ばじるちゃん「そう。本来ならば彼の仕事はそこで終わりで、後は気ままに余生を過ごすだけのはずだった」

 

ゆるふわ先生「でも、後期ってことは戻ってきたんだよね」

 

ばじるちゃん「論考の不備に気が付いたからよ。きっかけはイタリアのとある経済学者の対談が元だったらしいわ」

 

ゆるふわ先生「不備あったんだ。きれーに証明されてるなと思ってたけど……」

 

ばじるちゃん「彼の前期の哲学って、命題を中心にした論理的な証明だったよね」

 

ゆるふわ先生「うん」

 

ばじるちゃん「これは命題という形式で『真偽を調べることが出来る』のが大前提になっていて、それゆえに科学的な言語を対象にしていたと言えるわ」

 

ゆるふわ先生「科学的な言語?」

 

ばじるちゃん「科学的っていうのは、実験や観察に基づいてアプローチをとること。この場合、命題はまさに、科学的に真偽を判定することになるのよ」

 

ゆるふわ先生「なんでだ」

 

ばじるちゃん「名は世界の構成要素でしょ」

 

ゆるふわ先生「構成要素だね」

 

ばじるちゃん「じゃあ世界の構成要素が組み合わさって出来る命題って、実験と観察で調べることが出来るじゃない?」

 

ゆるふわ先生「世界の構成要素は現実に存在するからか」

 

ばじるちゃん「そうそう。現実に存在するものは実験と観察で調べることができる」

 

ゆるふわ先生「んーでも、今の聞いてると、特に問題は無いように思えるけど」

 

ばじるちゃん「ところが、大有りだったの。少なくともヴィトゲンシュタインにとっては」

 

ゆるふわ先生「なんでだ……」

 

ばじるちゃん「命題は確かに科学的な方法に基づいてるけれど、そもそも科学という体系自体、日常の言語をベースにして出来上がるじゃない」

 

ゆるふわ先生「どういうこと?」

 

ばじるちゃん「【ニワトリが先か卵が先か】よ。一番最初のニワトリはニワトリの状態で存在したのか、それとも卵からだったのか」

 

ゆるふわ先生「うーん例えが良く分からないけど、ニワトリと卵ならそりゃ卵の方が先に生まれそうだけどなぁ」

 

ばじるちゃん「この例えは堂々巡りを意味することでよく使われるわ。でも、この例に倣って【言語が先か、科学の体系が先か】と言われれば」

 

ゆるふわ先生「そりゃ言語が先でしょ」

 

ばじるちゃん「そう。それこそが問題だった」

 

ゆるふわ先生「問題だったのか」

 

ばじるちゃん「なぜなら『AはBである』のような命題……科学の体系に基づく言語は、日常言語あってこそ生まれるものだから」

 

ゆるふわ先生「ムズいな……最初の文字は世界の構成要素を写すために発明されたんじゃないっけ」

 

ばじるちゃん「そうね。でもやっぱり、その前には日常言語があったわけで……そうね、例えば『このマンガは良くない』っていうのは、その時々で意味が変わるでしょ」

 

ゆるふわ先生「変わるのか」

 

ばじるちゃん「単に面白くないのかもしれない。表現上で倫理的な問題があるのかもしれない。もしかしたら、作画が下手な可能性だってあるし」

 

ゆるふわ先生「おお、意味が変わった」

 

ばじるちゃん「科学的な言語だとこうはいかないのよ。あらゆる名と命題は、世界と1対1で対応する必要があったから」

 

ゆるふわ先生「つまり前期の問題は、名や命題の前提になる、日常言語を考慮に入れてないことにあったと」

 

ばじるちゃん「そ。だから後期ヴィトゲンシュタインは日常言語を調べていくことになる。そして、その結果として提唱されたのが【言語ゲーム】よ」

 

ゆるふわ先生「言語ゲーム……LOLみたいなやつかな」

 

ばじるちゃん「ゲームと言われてすぐに具体的な娯楽ゲームが浮かぶあたり、浅はかと言わざるを得ないわね」

 

ゆるふわ先生「(これが普通だと思うけどなー……)」

 

ばじるちゃん「なによ、その何か言いたげな目は」

 

ゆるふわ先生「ナンデモナイデス」

 

ばじるちゃん「はぁ、まあいいけど。で、言語ゲームについてなんだけれど。例えば、そもそも”リンゴ”が”リンゴ”である根拠って何かしら?」

 

ゆるふわ先生「? リンゴがリンゴである根拠?」

 

ばじるちゃん「これは”リンゴ”っていう名前の話ね。”リンゴ”の名前はなんで”リンゴ”じゃないとダメだったの?」

 

ゆるふわ先生「なんでって、そりゃあ……なんでだろう」

 

ばじるちゃん「別に他の果物と区別さえつけば、”レンゴ”とか、”ノコッチ”って名前でも良かったと思わない?」

 

ゆるふわ先生「……まあリンゴがリンゴって名前である必然性はないかもしれない」

 

ばじるちゃん「言語はこういった『必然的ではないけれど、こういうことにしておきましょう』を基礎にして構築される、ヴィトゲンシュタインはそう考えたの。そしてこれは、ゲームにおいても同様のことが言える」

 

ゆるふわ先生「言えるのか」

 

ばじるちゃん「特にルールに関してね。さっきLOLの話が出たけれど」

 

ゆるふわ先生「出しましたね」

 

ばじるちゃん「championってキャラを操作して相手のタワーを破壊するゲーム……だっけ?」

 

ゆるふわ先生「大体そんな感じ」

 

ばじるちゃん「これだって、相手のタワーを破壊する必然性なんてどこにもないのよ。『そう決めたから、そうなってる』ってだけで」

 

ゆるふわ先生「ふむ、言われてみればそうかもしれない」

 

ばじるちゃん「でも、一度決めた以上、ゲームの操作は定められたルールによって規定されるようになる」

 

ゆるふわ先生「言語も同じか」

 

ばじるちゃん「そう。言語の操作も、その住んでいる場所、時間軸における生活形式によって規定されることになるわ。ゲームの操作がルールによって規定されるようにね」

 

ゆるふわ先生「なるほどなぁ」

 

ばじるちゃん「これに関して大森荘蔵という哲学者は『ヴィトゲンシュタインには是非将棋を教えたい』と言っていたわ。他にも著名な哲学者は数多くいるけれど、ヴィトゲンシュタインにこそ教えたいと」

 

ゆるふわ先生「そりゃまたどうして」

 

ばじるちゃん「だって他の哲学者は、例えばハイデガーだと『なぜここには無ではなく、駒があるのか』から考えようとして、指し始めてくれないから」

 

ゆるふわ先生「ひっでえ例えだwww」

 

ばじるちゃん「でも、ヴィトゲンシュタインならあくまでもルールの中で戦ってくれる。だって、ゲームはルールに基づいて行われなければならないと、きちんと認識しているから」

 

ゆるふわ先生「確かに。言語ゲームって言うくらいだし」

 

ばじるちゃん「そしてヴィトゲンシュタインは、この言語ゲームの考え方に加えて、もう1つ大きなタームを提唱したの。それが【家族的類似】」

 

ゆるふわ先生「なんかほんわかしてそうな名前だ」

 

ばじるちゃん「でもこれ、中身はえげつないわよ」

 

ゆるふわ先生「どうえげつないの」

 

ばじるちゃん「この考え方に従えば、あらゆる本質や概念は消失することになるわ」

 

ゆるふわ先生「やべえ」

 

ばじるちゃん「詳しく見ていきましょう。ほら、私たちって普段”本質”とか”概念”って単語を何の気なしに使うじゃない」

 

ゆるふわ先生「特に倫理政経の先生とかね。クリティカルに批判しろ!」

 

ばじるちゃん「クリティカルなクリティークww思い出させないでよww」

 

ゆるふわ先生「あのチープさはなんなんだろうな一体」

 

ばじるちゃん「西尾維新好きの中高生が使ってそうなフレーズよね……。まあ私は嫌いじゃないわ。で、本質に関してなんだけれど、家族の集合写真を思い浮かべてみて」

 

ゆるふわ先生「何人くらい?」

 

ばじるちゃん「そうね、6人くらい」

 

ゆるふわ先生「爺ちゃん婆ちゃん、お父さんとお母さん、僕と妹ね。思い浮かべました」

 

ばじるちゃん「このとき、家族それぞれで似たところってあるでしょ。例えばノコッチノコッチのお爺ちゃんで目元が似ていたり」

 

ゆるふわ先生「うん。妹はお母さんと鼻の形同じだし」

 

ばじるちゃん「でも、家族全体の共通点は存在しない」

 

ゆるふわ先生「うん?……まあそういわれれば、全員が似てるってところは確かにないかも」

 

ばじるちゃん「にも関わらず、ノコッチはその家族の集合写真を『1つのまとまり』として認識できるでしょ」

 

ゆるふわ先生「出来るね」

 

ばじるちゃん「家族的類似とはまさに、この集合体のことを指しているわ」

 

ゆるふわ先生「……え、でもさ、これと本質の否定ってなんの関係があるの」

 

ばじるちゃん「共通点がないことそれ自体が本質の否定なのよ。じゃあゲームを例にとってみましょうか。ゲームという概念の本質を規定しようとします」

 

ゆるふわ先生「うむ」

 

ばじるちゃん「でも、ゲームと一口に言っても色々あるでしょ。トランプとか、野球とか、チェスとか、それこそLOLとか」

 

ゆるふわ先生「あるね」

 

ばじるちゃん「このとき、ゲームに含まれる集合体には、全てにあてはまる共通点なんて存在していない。チェスとテニスの共通点(1vs1)は野球に当てはまらないし、野球とサッカーの共通点(ボールを使う多人数対戦)はドラクエに当てはまらない」

 

ゆるふわ先生「そんなもんか」

 

ばじるちゃん「そんなもんよ。でも私たちは、これらを1つのまとまりとして捉えることができる。これが家族的類似であり、本質の否定。ヴィトゲンシュタインはこうして、昔から続いてきた本質についての問いにロンギヌスの槍を突き刺した。これはライルやオースティンのような、日常言語派へと続く系譜となるわ」

 

 

 

 

ばじるちゃん「これで長かったフレーゲからラッセル、ヴィトゲンシュタインにかけての話も終わりね。はぁ、結構喋った」

 

ゆるふわ先生「お疲れ様ー。次は何やるの」

 

ばじるちゃん「そうねー……現代はこれでちょっと満足したし、順当にソクラテスプラトンあたりにしておこうと思うわ」

 

ゆるふわ先生「王道だ」

 

ばじるちゃん「哲学に王道なんてないのよ!」

 

ゆるふわ先生「ユークリッド!」

 

ばじるちゃん「よく覚えてるじゃない。感心感心」

 

 

 

 

 

フレーゲからラッセル、ヴィトゲンシュタインへ【その3】

 

 

論理哲学論考 (岩波文庫)

論理哲学論考 (岩波文庫)

 

 


 

 


ゆるふわ先生「いよいよ哲学の話になるのか」

 

ばじるちゃん「ヴィトゲンシュタインノーベル賞受賞者であるラッセルをして『ケンブリッジ始まって以来の偉業を成し遂げた』と言わしめた哲学者」

 

ゆるふわ先生「ほほう」

 

ばじるちゃん「20世紀にはフロイトニーチェハイデガーの【思想の三統領】を始めとして数多くの偉大な哲学者が生まれたけど、その中でも間違いなく5指に入るでしょうね」

 

ゆるふわ先生「おお、なんか凄い人っぽい」

 

 ばじるちゃん「アダルトゲーム『素晴らしき日々』はヴィトゲンシュタインの著書『論理哲学論考』を題材にしたゲームとしても知られてるわ」

 

ゆるふわ先生「いきなり凄くなくなった気がする」

 

ばじるちゃん「それだけ人気ってことよ。『素晴らしき日々』だってとても評価の高いゲームらしいし、ノコッチが18歳になったらやってみるのも悪くないんじゃない?」

 

ゆるふわ先生「……女子が男子にエロゲー薦めるのってどうなんだ」

 

ばじるちゃん「まあそんな彼なんだけれど、提唱した哲学はスマートで怜悧で、これまでのあらゆる哲学的問題を根底から覆すものだった」

 

ゆるふわ先生「いきなり破天荒だな。ぶっ壊したのか」

 

ばじるちゃん「熱したナイフでバターを切るみたいにね。『語り得ぬものについては、沈黙しなければならない』は『論理哲学論考』での余りに有名な1節よ」

 

ゆるふわ先生「格好いい言い回しだ。ブリーチのポエムみたい。語り得ないものが何かとかは分からないけど」

 

ばじるちゃん「(そこでブリーチ持ってくるんだ……)格好よく見えるだけで、まだ文自体はふわっとしてるように感じるかしら。今回はこの『語り得ぬものについては、沈黙しなければならない』に込められた意味を追っていこうと思うわ」

 

ゆるふわ先生「ノコッチでも分かるようにお願いします」

 

ばじるちゃん「ノコッチでも分かるように?ちなみに彼は、これを読んだ師匠のラッセルに対して『大丈夫だ。君が理解できないのは分かっている』と言ってのけてるんだけれど」

 

ゆるふわ先生「ええー……。フレーゲを倒したラッセルでもダメだったのに、僕が理解できるの」

 

ばじるちゃん「大丈夫。君が理解できないのは分かっている」

 

ゆるふわ先生「ちょwww」

 

ばじるちゃん「私だって『ヴィトゲンシュタインを理解した』なんて、とてもじゃないけど言えないわよ。それでも、彼の考えに近づく努力くらいはしないと」

 

ゆるふわ先生「ふむ、それは確かに」

 

ばじるちゃん「じゃあ順を追って見ていきましょうか。彼の哲学観は前期と後期で分かれているんだけれど、まずは前期の哲学からね」

 

 

 

ばじるちゃん「『論理哲学論考』はこんな出だしから始まっているわ」

 

1.1 Die Welt ist die Gesamtheit der Tatsachen, nicht der Dinge.

 (世界とは事実の総体であり、事物の総体ではない。)

 

ゆるふわ先生「いきなり断定から入るんだ」

 

ばじるちゃん「論考――『論理哲学論考』の略語ね――は最初から最後までずっとこんな調子よ。この時点で他の哲学書とは大分違った様相を呈しているわね」

 

ゆるふわ先生「うん、なんか異質なのは伝わってくる」

 

ばじるちゃん「まず、ヴィトゲンシュタインの言った『事実』なんだけれど。これを理解するには彼の【写像理論】を知る必要があるわ」

 

ゆるふわ先生「理論って聞くと、途端に深淵なものに感じる」

 

ばじるちゃん「普段から慣れ親しんでないと威圧感のある単語かも。まあそこはおいおい慣れてもらうとして。そもそも、言葉はどうやって生まれたのかについて考えてみましょうか」

 

ゆるふわ先生「言葉はどうやって生まれたのか」

 

ばじるちゃん「ノコッチが原始人だったと想定してみましょう。あ、別に想定するまでもないか」

 

ゆるふわ先生「失敬な。僕はこれでも一応文明人だぞ」

 

ばじるちゃん「原始人のノコッチはどうやって言葉を使う?」

 

ゆるふわ先生「うーん、パッと言われても思いつかん」

 

ばじるちゃん「例が悪かったかな。言葉の始まりは人間の脳の進化も勿論そうなんだけれど、声帯が進化して多様な音を出せるようになったことも原因だと言われているわ」

 

ゆるふわ先生「脳だけじゃないんだ。言われてみれば確かに、声帯も進化しないと、言葉なんて話せないね」

 

ばじるちゃん「これもノコッチにとってはコロンブスの卵かしら?そして言葉が生まれて何千年か経つうちに、狩りから農業へ移行する人類が出てくる」

 

ゆるふわ先生「なんか世界史の話になってきたな」

 

ばじるちゃん「すぐ終わるわよ。【パロール】には人間の脳と声帯の発達が欠かせなかった一方で、【エクリチュール】の発明には狩りから農業への移行が必要だったの」

 

ゆるふわ先生「知らない単語が2つも出てきた」

 

ばじるちゃん「パロールは発話される言葉。エクリチュールは文字や文章のような、書かれた言葉一般のことね。例えばこの対談は、私たちにとってみればパロールだけれど、読者からすればエクリチュールだったり」

 

ゆるふわ先生「おお、メッタメタな例だ」

 

ばじるちゃん「どちらもソシュールからバルト、デリダのような【構造主義】から【ポストモダン】にかけての思想で頻出するタームだから、押さえておくといいわ」

 

ゆるふわ先生「忘れてそうだけど、了解です」

 

ばじるちゃん「で、なぜエクリチュール……書かれた言葉が登場するにあたって、農業への移行が必要だったか」

 

ゆるふわ先生「それは確かに気になる。狩りの段階で文字が発明されても、別におかしくないんじゃないかと思う」

 

ばじるちゃん「一言で答えましょう。ずばり『余剰食糧を確保する必要があったから』よ」

 

ゆるふわ先生「ほむ。たくさんご飯があると文字が生まれるのか」

 

ばじるちゃん「その考え方は間接的であっても直接的ではないわね。エクリチュールの発明と発展には、単語を作ったり文法を考案するのに専念する人が不可欠でしょ?」

 

ゆるふわ先生「うん、不可欠だ」

 

ばじるちゃん「でも、狩りで生活していたとき、人類はずっと食糧不足に悩まされてきたの。獲物がとれなかったら、その時点でひもじい思いをすることになるからね」

 

ゆるふわ先生「想像してみたけど、確かに3食を狩りで済ませるのはキツそう」

 

ばじるちゃん「ノコッチなら2週間も経たない内に餓死するんじゃない?でも、農業へ移行したことで多くの食料を安定的に確保できるようになった」

 

ゆるふわ先生「のんびり暮らせるようになったわけだ」

 

ばじるちゃん「余剰食糧の確保は、農業以外に従事できる人の層を生む。武器を製造する職人だったり、衣類を縫う仕立て屋だったり、集団を統率するリーダーだったりね。あるいは……」

 

ゆるふわ先生「文字を発明する人だったりか……なるほどなぁ」

 

ばじるちゃん「そう。そして文字が生まれたんだけれど、最初に生まれた文字は食料の種類や在庫を表す記号だったとされているわ」

 

ゆるふわ先生「実用的なところから始まったと。てか、大分脱線してない?」

 

ばじるちゃん「脱線はしてないわ。世界史の話が思ったより長くなってしまってるだけよ」

 

ゆるふわ先生「それを脱線というのでは……」

 

ばじるちゃん「む、ノコッチのくせに。まあ必要最低限のところはさらったしこれでいいか。ここからはまた論理学に戻るから」

 

ゆるふわ先生「大分あっちこっち飛ぶなぁ」

 

ばじるちゃん「世界史から論理学に飛ぶって考えれば、確かに突拍子ないかも。でも今の言葉の発明……言葉というより言語と言った方が適切ね。言語の発明に関する話はこれから役に立つと思うわ」

 

ゆるふわ先生「余剰食糧が他のことに専念できる人を生んで、そのことが文字の発明に繋がったことが?」

 

ばじるちゃん「ことことうるさい。シチューじゃないんだから」

 

ゆるふわ先生「うへえ、意識してなかった」

 

ばじるちゃん「ちなみにそっちはオマケね。必要なのは文字が収穫物を記すために生まれた点よ。もっと言えば『そこに在るものを写すために生まれた』という点」

 

ゆるふわ先生「それが論理学の話に役立ってくるんだ」

 

ばじるちゃん「ヴィトゲンシュタイン写像理論はまさにこのことを言っているしね。ところで、私は冒頭で『ヴィトゲンシュタインは哲学的諸問題を根底から覆した』と言ったけれど」

 

ゆるふわ先生「うん、言った言った」

 

ばじるちゃん「どうやって覆したのかと言えば、それは哲学的諸問題が『人間の思考の限界を超えたところにある』ことを証明したからよ」

 

ゆるふわ先生「えっちょっと待って。そんなの証明できるのww 哲学なんて考えても答え出ないっていうのは聞くけど……」

 

ばじるちゃん「だって彼は、人間の思考の限界を規定したから」

 

ゆるふわ先生「グロいなー……」

 

ばじるちゃん「ノコッチもそれについて見ていくのよ。なんのために論理学の話したと思ってるの」

 

ゆるふわ先生「なんのためでしょうか」

 

ばじるちゃん「思考の限界を規定するため」

 

ゆるふわ先生「思ったより壮大だった!」

 

ばじるちゃん「そうね。ところで【命題関数】の話はまだしてなかったっけ」

 

ゆるふわ先生「してないっすね」

 

ばじるちゃん「そもそも【命題】がなんなのかについては?」

 

ゆるふわ先生「それもしてない。だって命題とか言われても分からんもん」

 

ばじるちゃん「そっか。最初にしておけば良かったな……」

 

ゆるふわ先生「気が向いたらするって言ってた気がする」

 

ばじるちゃん「命題関数についてはね。まあいっか。それじゃあ命題の話をしましょう。と言っても意味は簡単よ。三段論法の

①A=B

②B=C

③ゆえにA=(B=)C

ってあったじゃない?」

 

ゆるふわ先生「あったあった。僕が死ぬやつ」

 

ばじるちゃん「凄絶な覚え方ね。これの

①A=B

つまり具体的には

ノコッチは人間である

のような、『真偽を判定できる文』のことを命題と言うわ」

 

ゆるふわ先生「真偽を判定できる文……いまいちピンと来ないけど」

 

ばじるちゃん「例えばこの

ノコッチは人間である

という文は、ノコッチが本当に人間であるかどうかについて、真偽を判定することができる。だからこれは命題」

 

ゆるふわ先生「ふむ」

 

ばじるちゃん「そして、この命題における『ノコッチ』とか『人間』のことを【名】と呼ぶの」

 

ゆるふわ先生「①A=B

におけるAやBも名ってことになるのかな」

 

ばじるちゃん「まあ、それって名を記号に置き換えただけだしね」

 

ゆるふわ先生「把握した」

 

ばじるちゃん「ここで重要なのが、名は世界を構成する諸要素と対応してるってところ。例えば、

 

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今座ってるここは”スタバのテーブル”だし、

私の飲んでるこれ

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は”スタバのココア”でしょ?」

 

ゆるふわ先生「”スタバのテーブル”も”スタバのココア”もどっちも名ってことか。……あ、もしかして、名が世界の諸要素に対応してるってことは、世界は名で出来ているってこと?ほら、そこを走ってる”車”とか、この”建物”とか、全部名だし」

 

ばじるちゃん「あるいは”ユーラシア大陸”とか”太平洋”とか”雲”とか」

 

ゆるふわ先生「そうそう。そうやっていけば世界中のもの全部が名ってことになるじゃん」

 

ばじるちゃん「だから世界は名で出来ていると」

 

ゆるふわ先生「そういうこと!……で合ってる?」

 

ばじるちゃん「ふむ。ノコッチにしては慧眼ね」

 

ゆるふわ先生「よっしゃ、褒められた」

 

ばじるちゃん「でも違うわ」

 

ゆるふわ先生「マジか」

 

ばじるちゃん「確かに名は世界の構成要素よ。でも、名だけじゃ世界の在り方全てを記述するには足りないの。名は”事物”ではあっても”事実”ではありえない」

 

ゆるふわ先生「どういうことだ」

 

ばじるちゃん「ちゃんと説明するわ。『AはBである』という命題。これが名の連鎖から出来ていることは分かる?」

 

ゆるふわ先生「言われてみれば。名が集まって命題を構成してる」

 

ばじるちゃん「世界を記述するためにはこの『名の連鎖』……つまり命題が不可欠になってくるの。”テーブルにココアが乗っている”、”ノコッチが椅子に座っている”は、名だけじゃ示せないから」

 

ゆるふわ先生「無理なの?」

 

ばじるちゃん「これを示すためには

『テーブルの上に乗っているのはココアである』

って風に、命題にしないと」

 

ゆるふわ先生「あー、そうか。名だけじゃ無理だわ」

 

ばじるちゃん「惜しいと言えば惜しかったんだけれどね。まあノコッチにしてはいいところまで行ったと思うわ。こうして、命題によって世界は記述されるの」

 

ゆるふわ先生「ってことは、世界は命題によって成り立っていると」

 

ばじるちゃん「それも少し違う」

 

ゆるふわ先生「マジか」

 

ばじるちゃん「命題は真なことだけでなく、偽のことについても記述できてしまうからね。例えば

ノコッチは天才である』

とか。言い方を変えれば、命題は世界の在り方の可能性までをも記述してしまう」

 

ゆるふわ先生「世界に成り立たないものも記述出来てしまうってことか」

 

ばじるちゃん「そう。そして、世界のあらゆる可能性を記述してしまう命題の集合のことを、ヴィトゲンシュタインは【論理空間】と呼んだ」

 

ゆるふわ先生「また格好いい名前が出てきた」

 

ばじるちゃん「論理空間は抽象的だからイメージがつきにくいし、図示もしにくいのよね。強いて言うなら、

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 こんな感じの半球の中に、あらゆる命題が含まれていると思ってくれればいいわ」

 

ゆるふわ先生「うーん、いまいちピンと来ないけど、とにかく命題が集まって論理空間を形成するわけね」

 

ばじるちゃん「ここでは現実の世界は、論理空間のほんの一部に過ぎないことになる。逆に言えば、あらゆる可能性のうち、実際に世界に存立しているもの、それこそが”事実”であり」

 

ゆるふわ先生「世界は”事実”の総体だと。なるほど」

 

ばじるちゃん「そして名と命題という『言語の可能性』が論理空間を作り、『世界の在り方の可能性』となる」

 

ゆるふわ先生「名は世界の構成要素で、命題は世界を表しているからか」

 

ばじるちゃん「ヴィトゲンシュタインは論考でこう言ってるわ。『言語の限界は、私の世界の限界である』」

 

ゆるふわ先生「『言語の限界は、私の世界の限界』……センスある言い回しだなぁ」

 

ばじるちゃん「それだけじゃない。私たちは普段、言語に基づいて物事を考えるでしょ?」

 

ゆるふわ先生「うん。こうやって話してるのも言語だしね」

 

ばじるちゃん「すると、言語の限界は、世界の限界であるのと同時に、『私の思考の限界』にもなる」

 

ゆるふわ先生「おお……」

 

ばじるちゃん「ヴィトゲンシュタインはこうして思考の限界を規定したってわけ」

 

ゆるふわ先生「すげえ。名の連鎖から生じる論理空間が、全部を規定しちゃうわけだ」

 

ばじるちゃん「そして彼はこう言ってのけるわ。これまでの哲学的諸問題は、この論理空間の外に位置するから思考できず、語り得ないと」

 

ゆるふわ先生「ふむ……え、でもさ、これまでの哲学的諸問題も言語化されてるんじゃないの。哲学的諸問題がどういうのかはともかくとして」

 

ばじるちゃん「哲学的諸問題っていうのは『正義とは何か』とか『徳とは何か』あるいは、『神は存在するのか』のような問題のことね」

 

ゆるふわ先生「ほら、やっぱり言葉になってるじゃん」

 

ばじるちゃん「確かに言葉にはなってる。だけど、こういった”正義”や”徳”、”神”はそもそも、名になり得ないの」

 

ゆるふわ先生「そうなの?普通に考えたら名になるように思える」

 

ばじるちゃん「最初の名の定義を思い出して。名は世界の構成要素でしかありえない。でも、これらの抽象的な【観念】は、実際には現実に存在しない」

 

ゆるふわ先生「おけ、まず観念ってなんですか」

 

ばじるちゃん「そこからか……。先に結論を言ってしまいたいんだけれど、仕方ないわね。ほら、このペンを見て」

 

ゆるふわ先生「見ました」

 

ばじるちゃん「じゃあこれを私の後ろ手に隠します」

 

ゆるふわ先生「隠されました」

 

ばじるちゃん「今のペンを思い浮かべて」

 

ゆるふわ先生「思い浮かべました」

 

ばじるちゃん「それが観念よ。定義するなら、物事に対してもつ考えのこと」

 

ゆるふわ先生「なんとなく分かった」

 

ばじるちゃん「よし、じゃあ戻るわよ。”正義”や”徳”、”神”といった観念は、現実に存在しない以上、名にはならない」

 

ゆるふわ先生「言語ではあっても、名ではないのか。まあ世界の構成要素では確かにないかも。直接見えないし」

 

ばじるちゃん「だから、これらは命題にすることは出来ず、真偽を確かめることもできない」

 

ゆるふわ先生「命題は名の連鎖だからか」

 

ばじるちゃん「そうしてこれらの観念を扱う哲学的諸問題自体が、論理空間の外側に置かれることになる」

 

ゆるふわ先生「世界の限界と思考の限界から弾き出されると」

 

ばじるちゃん「つまり、語り得ない」

 

ゆるふわ先生「ってことは……」

 

ばじるちゃん「そう。言語の可能性を超えた今、これらの語り得ぬものについては、沈黙しなければならない。彼はそう言って論考を締めくくった」

 

ゆるふわ先生「……いや、ほんと格好いいなヴィトゲンシュタイン。感服しました。そりゃ人気出るわ」

 

ばじるちゃん「ノコッチでも分かったみたいで私としては一安心ね。前期のヴィトゲンシュタインについて最後に1つだけ」

 

ゆるふわ先生「まだあるのか」

 

ばじるちゃん「こうして思考の限界を規定して、語り得ぬものが炙りだされたわけだけれど、彼はこの『語り得ぬもの』こそが重要だと考えたの」

 

ゆるふわ先生「言語化できないのに?」

 

ばじるちゃん「そう。例えば”善の意志”について考えてみましょう。これは世界の構成要素ではない。だから語り得ない」

 

ゆるふわ先生「思考の限界の外にあると」

 

ばじるちゃん「でも、老人に席を譲るとき、あるいはノコッチに色々と教えてあげるとき。私たちはそこに”善の意志”を見出すことができる」

 

ゆるふわ先生「……まあ確かに道徳的かもしれない」

 

ばじるちゃん「つまりこういうことよ。『語り得ぬもの』は、確かに言語の限界を超えている。だけど、いやだからこそ、そういったものは行動などによって示されなければならない」

 

ゆるふわ先生「ほー、良いこと言うなあ」

 

ばじるちゃん「これが論考における前期ヴィトゲンシュタインの思想よ。少し長くなっちゃった」

 

ゆるふわ先生「うん、確かに長い」

 

ばじるちゃん「まあ色々喋ったからね。厳密には語りきれてないところもたくさんあるんだけれど……」

 

ゆるふわ先生「大まかには分かったし別にいいやw」

 

ばじるちゃん「(浅はかだなー……)さて、次でこの『フレーゲからラッセル、ヴィトゲンシュタインへ』もラストね」

 

ゆるふわ先生「前期が終わったから、次は後期ヴィトゲンシュタイン?」

 

ばじるちゃん「そうね。最初にフレーゲの積み残しをやってから、後期ヴィトゲンシュタインに入っていこうと思うわ」

 

フレーゲからラッセル、ヴィトゲンシュタインへ【その2】

ばじるちゃん「どこまで話したっけ」

 

ゆるふわ先生「確か【ラッセルのパラドックス】がフレーゲをボコボコにしたってところまで」

 

ばじるちゃん「ああそうそう。そこの中身までは話してなかったのよね。まあでもその前に、少し寄り道しましょうか。【数学的帰納法】ってあるでしょ」

 

ゆるふわ先生「nとn+1番目って奴だよね」

 

ばじるちゃん「この数学的帰納法に対するジョークとして【ハゲ頭のパラドックス】というのがあるわ」

 

ゆるふわ先生「何それ斬新」

 

ばじるちゃん「言われたのは古代ギリシャなんだけれどね。髪の毛が1本もない人はハゲである。このとき髪の毛を1本足してもやっぱりハゲである。よって全ての人はハゲである」

 

ゆるふわ先生「悲しいパラドックスだなぁ」

 

ばじるちゃん「さらにトリビアルな話として、数学的帰納法という言い方自体がパラドキシカルというのもあってね」

 

ゆるふわ先生「矛盾してるの?」

 

ばじるちゃん「矛盾してるというか……そもそも数学は公理から始まって定理を導出していくシステムだから」

 

ゆるふわ先生「定理っていうと、方べきの定理とかのアレか。暗記させられたやつ」

 

ばじるちゃん「そう。公理は数学を始める上での大前提みたいなものね。例えば『点と点は直線で結ぶ事ができる』なんかがあるわ」

 

ゆるふわ先生「ふむ。で、それが数学的帰納法とどう関わってくるの」

 

ばじるちゃん「気付かない?公理という普遍的な前提から『三角形の内角の和は180度』のような定理が個別的に導かれる手法をなんといったっけ」

 

ゆるふわ先生「演繹……ああそうか。数学ってシステム自体が演繹的なのに、その中で帰納法なんて呼び名が使われること自体おかしいんだ」

 

ばじるちゃん「そういうこと。ノコッチにしては飲み込みが早かったじゃない」

 

ゆるふわ先生「まあ僕もたまにはね」

 

ばじるちゃん「よし、じゃあ寄り道終わりっ。それで話をフレーゲに戻すわけだけれど……何度も言っている通り、フレーゲは数学を論理学的手法に還元しようとした」

 

ゆるふわ先生「頑張ったわけだ」

 

ばじるちゃん「頑張ったの。そしてこの途上で、数それ自体を論理的に定義する必要が出てきた」

 

ゆるふわ先生「数それ自体を論理的に……どうにもピンと来ないけど」

 

ばじるちゃん「数学を論理学に取り込むにあたって、数そのものを見直すことになっても別に不思議じゃないでしょ?まあこれについては、そういうものだと思って流してくれればいいわ。ノコッチがラッセルのパラドックスを理解するのに必要と思ったところだけ、かいつまんで説明するから」

 

ゆるふわ先生「おけ。かいつまんで説明されましょう」

 

ばじるちゃん「で、数を論理学的に定義するんだけれど、ここで重要なのが、フレーゲが”0”を定義するにあたって【空集合】という概念を用いたことね。彼は0を、空集合の【外延】によって定義づけようとした」

 

ゆるふわ先生「空集合って、空の集合のこと?文字通りでいいなら、なんとなくイメージはつくかな。外延はちょっと意味分からんけど」

 

ばじるちゃん「外延⇔内包は抑えておきたいわね。外延は具体的な対象を意味しているわ……例えば『アホの外延はノコッチ』みたいな」

 

ゆるふわ先生「おう、なら内包についても僕を例にして説明してくれ」

 

ばじるちゃん「うーん、内包は事物に共通の性質って意味だから、ノコッチを例にするのは少し難しいな……『ノコッチの授業ノートは”浅はかな人に使われてかわいそう”という性質を内包している』って感じ」

 

ゆるふわ先生「……」

 

 

ばじるちゃん「空集合については文字通りの意味よ。イメージがついたなら取り立てて言うこともないかしら。でも敢えて具体的に言うなら『ノンケの野獣先輩』とか……いや、どちらかといえばこれは【オクシモロン】かなぁ」

 

ゆるふわ先生「汚い例えだ。オクシモロンって?」

 

ばじるちゃん「撞着語法。形容矛盾と言った方が分かりやすいかな。『明るい暗室』『小さい巨人』『賢いノコッチ』みたいなのが好例ね」

 

ゆるふわ先生「さらりとdisを混ぜるのやめーや」

 

ばじるちゃん「それからこれは余談だけど、林修か誰だったかが『有能なマルクス主義者は形容矛盾である』と言っていたわ。中々気の利いたブラックジョークじゃない?」

 

ゆるふわ先生「そもそもマルクスが誰か分かりません」

 

ばじるちゃん「だろうと思った。まあマルクスの話はまたいつか……。それで、空集合の例としては『プラチナで出来た本』なんていうのがあるかな。要は、想像は出来るけれど、該当するものがない集合のことね」

 

ゆるふわ先生「『ノコッチにデレデレなばじるちゃん』も今は空集合かな」

 

ばじるちゃん「それは想像できないから却下」

 

ゆるふわ先生「なるほどね」

 

ばじるちゃん「そしてフレーゲ空集合として『自分自身を含まない集合の集合』を挙げた」

 

ゆるふわ先生「お、なんかいきなり日本語がややこしくなったぞ」

 

ばじるちゃん「そうね。なんでややこしくなったのかと言えば集合論の話になるんだけれど……空のベン図を考えてみて。それを大量に集めても、やっぱり空のままでしょ?」

 

ゆるふわ先生「うん、0をいくら集めても0だしね。そこから何かが生まれたら逆におかしい」

 

ばじるちゃん「その大量に集めた空のベン図は、1つの大きな単位での集合になる。これが『自分自身を含まない集合の集合』ね」

 

ゆるふわ先生「うーん、納得いくようないかないような」

 

ばじるちゃん「結構ふんわりとしてるよね。頑張ってノコッチ。ここがラッセルのパラドックスの要諦にもなるから」

 

ゆるふわ先生「取り敢えず、0が集まって1つの大きな0を作ってる、みたいな認識をしてる」

 

ばじるちゃん「数学を論理学で再構築してるのに、数学に返るのはどうなんだって気もするけれど……まあノコッチだしいいか。とにかく、フレーゲ空集合として『自分自身を含まない集合の集合』を挙げ、後にその矛盾をラッセルから指摘されることになる」

 

ゆるふわ先生「『自分自身を含まない集合の集合』って矛盾してるんだ」

 

ばじるちゃん「ラッセルがフレーゲに送った手紙があるから、それの訳文を見てみましょうか」

 

ωを、『それ自身に述語づけられない述語である』という述語だとします。このとき、ωはそれ自身について述語づけられるでしょうか。いずれの答えからも、その反対が帰結します。それゆえ、ωを述語ではないと結論せざるを得ません。同様に、自分自身を要素として持たないような集合の、(一つの全体としての)集合というものも、存在しません。このことから、ある状況では、確定した集合が一つの全体を形成しないことがある、と私は結論します。

 

ゆるふわ先生「使われてる言葉は難しくないのに、言ってる意味が全然分からん。述語づけられない述語ってなんだよ。3行でおk」

 

ばじるちゃん「うん、一応載せてはみたけど、やっぱりノコッチには難しいよね。『述語づける』の述語は、普通に主語―述語における述語のことよ。例えば、

 

昔むかし、ジャングルの奥地にダンシングフィッソン族という民族がいた

 

これは主語が『ダンシングフィッソン族という民族』、述語が『いた』。『ジャングルの奥地に』は修飾語ね。他にも、

 

リンゴが熟している

 

は主語が『リンゴ』、述語が『熟している』になるわ」

 

ゆるふわ先生「述語づけるっていうのは『ダンシングフィッソン族』に『いた』をくっつけたり、『リンゴ』に『熟している』をくっつけたりするってことか。要は説明するってことなのかな」

 

ばじるちゃん「『述語=説明すること』と定義しちゃうと、じゃあ修飾語はなんだって話になるわよ」

 

ゆるふわ先生「う、確かに」

 

ばじるちゃん「まあ大まかなニュアンスは当たってるんだけれどね。論理学の祖アリストテレスに倣って言えば、述語は『AはBである、におけるB』ということになるわ」

 

ゆるふわ先生「ふむ。述語の意味はなんとなく分かった。でも結局、このパラドックスはなんて言いたかったんだろう」

 

ばじるちゃん「いい?ちゃんと聞いててね。まず、ラッセルは最初に、ωは『自分自身に述語づけられない述語である』と言ってる」

 

ゆるふわ先生「言ってるね」

 

ばじるちゃん「ということは、ほら、

ω は 自分自身に述語づけられない述語 である

A   は         B         である

ここでωの述語は『自分自身に述語づけられない述語』になるでしょ」

 

ゆるふわ先生「Aの述語がBになるのと同じ理屈か。確かに」

 

ばじるちゃん「でも、定義からωは述語づけることができない」

 

ゆるふわ先生「……おお。ωは自分自身に述語がつかないと定義されたはずなのに、述語がついてる」

 

ばじるちゃん「そう。そしてこの述語を『集合』と置き換えても同じことが言える。0を論理学的に定義するにあたって生じるパラドックス。これこそがフレーゲの偉大な試みを基底から葬り去った、ラッセルのパラドックスよ」

 

ゆるふわ先生「フレーゲ頑張ったのになぁ」

 

ばじるちゃん「ちなみに、数学の盤石な地位を築こうとする動きはフレーゲ以外にもあったの。【ヒルベルト・プログラム】と言うんだけれど」

 

ゆるふわ先生「なんかクソ格好いい名前だ。SFに出てきそう」

 

ばじるちゃん「ヒルベルトという数学者が、数学の完全性と無矛盾性を示そうとして……まあこれも【ゲーデル不完全性定理】によって棄却されるわ。フレーゲの試みに対して、ラッセルのパラドックスが死亡宣告書になったようにね」

 

ゆるふわ先生「ゲーデル不完全性定理ヒルベルト・プログラムといい、さっきから一々格好いいぞ。聞いただけでワクワクしてくる」

 

ばじるちゃん「中身は難しいけれどね。ノコッチが理解できるのかなー……。でも、これもいつかやりたいなぁ」

 

ゆるふわ先生「分かるように説明してくれればいいんだよ。で、ここまででラッセルのパラドックスが終わったわけだ」

 

ばじるちゃん「そうね。次は論理学の手法を哲学に持ち込んだ、ヴィトゲンシュタインについて見ていきましょう」

 

 

 

 

 

 

 

帰納と演繹――フレーゲからラッセル、ヴィトゲンシュタインへ【その1.5】

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 ばじるちゃん「フレーゲからラッセルへ行く前に、【帰納】と【演繹】について話しておくことにするわ」

ゆるふわ先生「おお、なんか難しい単語が出てきた」

ばじるちゃん「確かに難しい単語だけど、所詮は2文字程度の情報量よ。『公園』に『公園』以上の情報量がないようにね」

ゆるふわ先生「てことは、1行ぐらいで定義できると」

ばじるちゃん「そ。まあ分かりやすくするために、少し冗長に話すけれど」

ゆるふわ先生「分かりやすいようにお願いします」

ばじるちゃん「最初に定義から述べておきましょうか。まず帰納は『個別的・特殊的な事例から一般的・普遍的な規則・法則を見出そうとする論理的推論の方法』と定義される」

ゆるふわ先生「うわあもう無理だ」

ばじるちゃん「抽象的な概念は、どうしても定義も抽象的になっちゃうからね。具体的に言うと……例えば、ノコッチが珍しく勉強してたとするじゃない」

ゆるふわ先生「珍しく勉強してた」

ばじるちゃん「英語の勉強をしてたとしましょう。すると、一気に成績が伸びる勉強法を思いついてしまった」

ゆるふわ先生「7回読みのことかな?確かにあれのお陰でかなり成績上がったけど」

ばじるちゃん「東大主席弁護士がプッシュしてたらしいけれど、あれそんなに良かったの?まあいいや。で、それで成績が上がったら、勉強法を他の科目にも適用しようとするでしょう」

ゆるふわ先生「そりゃ当然他の科目にも試してみたよ」

ばじるちゃん「このときの『英語という個別の科目で思いついた勉強法を、他の科目にも当てはまる一般的な法則として適用しようとする』、これが帰納よ」

ゆるふわ先生「ああ、それで『個別的な事例から一般的な法則を見出す』か。なるほど」

ばじるちゃん「次に演繹ね。これは帰納とは対の概念になるわ。『一般的・普遍的な前提から、より個別的・特殊的な結論を得る論理的推論の方法』。ほら、定義も帰納とは逆でしょ?」

ゆるふわ先生「うむ、でも対と言われてもやっぱり定義だけじゃ分からん。具体例がほしい」

ばじるちゃん「帰納から演繹は導かれるのよ。さっきの例だと、英語での勉強法が帰納的に他の科目にも試されるようになったじゃない」

ゆるふわ先生「試されるようになったね」

ばじるちゃん「このとき、この勉強法は……ノコッチのやり方で言えば『7回読みが一般的な勉強法として他の科目にも試される』、つまり演繹的になされるの」

ゆるふわ先生「『一般的な前提を個別に試してみる』ことね。ちょっとややこしいけどなんとなく分かった」

ばじるちゃん「本当に?じゃあ問題です。『カラスは黒い』という前提から他のカラスを個別に調べていくのは、帰納と演繹どっち?」

ゆるふわ先生「演繹だよね。『カラスは黒い』っていう一般的な前提から個別のカラスについて見ていってるし」

ばじるちゃん「流石に簡単すぎたかな。正解。この場合だと、逆に個々のカラスを調べていって『カラスは黒い』という結論を導出しようとするのが帰納にあたるわ」

ゆるふわ先生「でもカラスって白いのとかもいるよね」

ばじるちゃん「そうね。ちなみにこのカラスは【ヘンペルのカラス】を意識してるんだけれど……いい機会だからこっちも説明しておこうかな」

ゆるふわ先生「ヘンペルのカラスってなんか強そう。アルトリウスの墓を護る大狼シフに似たものを感じる」

ばじるちゃん「何それ」

ゆるふわ先生「ダークソウルってゲームに出てくるめっちゃ巨大な狼」

ばじるちゃん「ふーん。全然違うけれどね」

ゆるふわ先生「違うのか」

ばじるちゃん「ヘンペルのカラスは帰納法の問題点を明らかにしたことで知られているわ。『全てのカラスは黒い』ことを証明したいとしましょう」

ゆるふわ先生「白いカラスは」

ばじるちゃん「今は無視。それで、どうやったら証明できると思う?」

ゆるふわ先生「どうすりゃ出来るかなあ。うーん……1匹ずつ調べるのは面倒くさいし。……分からん。お手上げ」

ばじるちゃん「ほら、証明って聞くと数学Ⅰを思い出さない?命題の逆、裏、対偶」

ゆるふわ先生「あーあの凄い苦手だったやつだ」

ばじるちゃん「私もあれニガテ……。でも習ったわよね。対偶の真偽は元の命題の真偽と等しいって」

ゆるふわ先生「あっそうか。じゃあこの場合だと『全てのカラスは黒い』の対偶を調べればいいのか。『黒くないものはカラスでない』?」

ばじるちゃん「そういうことになるわね」

ゆるふわ先生「いやちょっと待って。こんなの対偶取ったところで調べれそうにないんだけど。なんだよ黒くないものはカラスでないって。どうやって調べるんだよ」

ばじるちゃん「確かに調査方法については色々思うところがあるでしょうけれど……それについては今は問題視されないわ。最初の『全てのカラスは黒い』に関しては、メンドくさいにしても、世界中に存在してる全てのカラスを調べることが出来れば、一応はハッキリするじゃない」

ゆるふわ先生「まあ全部調べたらそうなるだろうね。そして白いのが出てくる」

ばじるちゃん「いつまでアルビノ種の話引きずってんのよ……。だけど一方で、これの対偶『黒くないものはカラスでない』を調べようと思ったら、世界中に存在する全ての黒くないものを調べる必要がある」

ゆるふわ先生「うん。……うん?でもまあ、カラスを全部調べれるって前提があるなら、黒くないものを全部調べることができてもおかしくないよね」

ばじるちゃん「そうね。おかしくないと思うわ」

ゆるふわ先生「じゃあいいんじゃないの?黒くないものを全部調べれるわけなんだし」

ばじるちゃん「ハァー、浅はかね」

ゆるふわ先生「出た。浅はか」

ばじるちゃん「じゃあ仮にリンゴとかバナナとか、全ての黒くないものを調べたとして、そこにカラスが1羽もなかったとしましょう」

ゆるふわ先生「うん」

ばじるちゃん「そうしたら、結論として『全ての黒くないものを調べたがカラスはいなかった。つまりカラスは黒い』ということになるわけだけれど、そもそも変だと思わないの?だってカラスは1羽も調べられてないのに、カラスについての結論が出てしまうのよ」

ゆるふわ先生「うーんまあ確かにそれは違和感ある……。けど、間違ってはないような気もする。だってカラス以外の黒くないものが全部調べられたんだったら、もうカラスは黒いって結論づけるしかないじゃん」

ばじるちゃん「そうね。この対偶論法は確かにノコッチの言う通り、論理的には全く問題がない。でも、だからこそ問題が生じるの。パラドキシカルだけれどね」

ゆるふわ先生「問題って?」

ばじるちゃん「例えば、ノコッチは神であるとしましょう」

ゆるふわ先生「僕は神であるとする」

ばじるちゃん「これをさっきの対偶論法に当てはめると『神でないものはノコッチでない』ということになる。で、ノコッチ以外の全てのものを調べたとして、そこに神がいなかったとしましょう」

ゆるふわ先生「……おお。この理屈だと僕は神ということになる」

ばじるちゃん「ね、変でしょ」

ゆるふわ先生「変だ」

ばじるちゃん「これがヘンペルのカラスよ。それにしても、フレーゲ、ラッセル、ヴィトゲンシュタインとは余り関係のないところまで来ちゃったわね……」

ゆるふわ先生「関係ないのかww まあ僕はおおってなったし別にいいんじゃね」

ばじるちゃん「いいのかな……。まあ、この帰納や演繹が数学にどう絡んでくるかも含めて、次に回すことにするわ」

フレーゲからラッセル、ヴィトゲンシュタインへ【その1】

 

ゆるふわ先生「哲学の話なのに、いきなり20世紀からなんだ」

 

ばじるちゃん「そうだけど、なんか文句でもある?」

 

ゆるふわ先生「いや、哲学って凄い昔から続いてるイメージあるからさ。それなのに20世紀の哲学者をいきなり持ってくるの、大丈夫なのかなと思って」

 

ばじるちゃん「へえ、ノコッチにしては割とまともなこと言うじゃない。それ、他の学問とは違う哲学特有の仕組みを分かってて言ってる?」

 

ゆるふわ先生「哲学特有の仕組み?いや、そういうのは全く意識してなかったけど」

 

ばじるちゃん「まあそうよね。ノコッチだもんね。そうね……例えば数学とか、物理でも化学でもなんでもいいんだけど……他の学問で人の名前を覚えることなんてほとんどないでしょ?」

 

ゆるふわ先生「確かに」

 

ばじるちゃん「でも、哲学には人の名前がたくさん出てくるの」

 

ゆるふわ先生「倫理政経はホント、世界史かってくらい人名やらされてるよね。あーなるほど。哲学だと人の名前が重要で、ってことはつまり、『誰が何をしたのか』が重要なのか」

 

ばじるちゃん「そうそう。哲学は誰が何をしたかが重要で、さらに先人の思想を発展させたり根本から否定したりということが繰り返し起こってる学問なの。これが他の学問とは違う、哲学特有の仕組みね」

 

ゆるふわ先生「ふむ」

 

ばじるちゃん「で、話を戻すけれど、確かに哲学は紀元前から連綿と続いてきたわ。特にソクラテスプラトンの思想は後世にも大きな影響を及ぼしてる。『西洋哲学は全てプラトンの脚注にすぎない』と豪語する哲学者もいたくらいだし」

 

ゆるふわ先生「プラトンってそんなに凄かったのww 倫理の授業でイデアがなんとか言ってた気がするけど、もう全然覚えてないなぁ」

 

ばじるちゃん「私の師匠をして『ノコッチ君は浅はかだなぁ』と言わしめるだけのことはあるわね。その健忘っぷりに敬意を表するわ」

 

ゆるふわ先生「その話はもういいから。じゃあさ、なんでプラトンから始めないの?そんなに凄かったんでしょ」

 

ばじるちゃん「だっていきなり古臭いのから始めるのもアレじゃない」

 

ゆるふわ先生「……」

 

ばじるちゃん「何よ。なんか文句でもある?」

 

ゆるふわ先生「ないけど……いや、あるわ。やっぱりある。だって今さっき『ソクラテスプラトンの思想は後世にも大きな影響を及ぼしてる』って言ったばっかじゃん」

 

ばじるちゃん「確かに言ったわね」

 

ゆるふわ先生「哲学は誰が何をしたのかが重要で、しかもそれが後世にまで続いてることもある」

 

ばじるちゃん「その通り」

 

ゆるふわ先生「でもそこからは始めないんだ」

 

ばじるちゃん「そうよ。仕方ないからちゃんと理由を明確にしておくわ。今回扱うフレーゲ、ラッセル、ヴィトゲンシュタインは【論理学】という分野をより精緻化した人たちなのだけれど、これまでの西洋哲学を切断するような形で出現してるの」

 

ゆるふわ先生「西洋哲学を切断ってなんか格好いいな」

 

ばじるちゃん「デデキント切断!……なんてのはさておき。まあその理由も当然と言えば当然なんだけれどね。フレーゲやラッセルは元々数学者で、論理学に対しても数学の立場からアプローチをかけてたから。これまでの西洋哲学の流れなんてガン無視よ、ガン無視」

 

ゆるふわ先生「ほへー。でもそれ論理学の話だよね。哲学の話ではないような」

 

ばじるちゃん「ヴィトゲンシュタインが論理学を哲学に架橋するまでは、ね」

 

ゆるふわ先生「論理学と哲学が繋がるんだ。まあ、今のところは論理学も哲学も、それぞれなんなのか全く分かってないんだけど」

 

ばじるちゃん「『哲学とは何か?』はそれ自体が哲学になり得るわ。確か京大英語の過去問でそういった趣旨の問題が出てた気がする。三木清は『哲学とは何か、我々は既に知っている』と言っていたけれど」

 

ゆるふわ先生「まあぼんやりとは分かる気がしないでもない」

 

ばじるちゃん「まあ哲学については一旦置いておきましょう。論理学の方は分かりやすいんじゃないかな。数学が数に関する学問、物理学が物理に関する学問であるのと同じで、論理学も論理に関する学問ってわけ」

 

ゆるふわ先生「うん、それは分かる。でも、数学だと例えば1+1=2みたいなことを扱うじゃん。論理学は何を扱うの?論理と言われても余りピンとこない」

 

ばじるちゃん「それをこれから見ていくのよ。ほんの少しだけれどね」

 

 

 

 

ばじるちゃん「そもそも論理学が生まれたのは紀元前、アリストテレスの頃に遡るわ」

 

ゆるふわ先生「あ、遡っちゃうんだ」

 

ばじるちゃん「遡っちゃったわね」

 

ゆるふわ先生「……そんな悲しそうな顔しなくていいから。続けてよ」

 

ばじるちゃん「アリストテレス古代ギリシャを代表する大哲学者の1人で、論理学の他にも多くの学問を生み出しているわ。倫理学とか、形而上学とか、生物学とか、後天文学なんかも。万学の祖と呼ばれる所以ね」

 

ゆるふわ先生「アレクサンドロス大王の家庭教師だったんだよね、確か」

 

ばじるちゃん「そう。プラトンとは師弟関係にあったのだけれど、師匠のイデア論を思いっきり否定したことでも知られてる。他にも後の普遍論争の引き金になったりとか、四原因説とか、中庸とか……まあこの話しちゃうといつまで経ってもフレーゲに辿り着かないから、これはまた今度ね」

 

ゆるふわ先生「それで、そのアリストテレスが論理学を発明したと」

 

ばじるちゃん「三段論法って聞いたことない?

①A=B

②B=C

③ゆえにA=(B=)C

ってやつ」

 

ゆるふわ先生「聞いたことあるようなないような」

 

ばじるちゃん「これをもう少し具体的にすると、例えば

ノコッチは人間である

❷人間はいつか死ぬ

ノコッチはいつか死ぬ

って感じね」

 

ゆるふわ先生「馬鹿にされてるのだけは分かった」

 

ばじるちゃん「論理学はこういった【A=BかつB=Cならば、A=C】みたいな論理の形式に関する学問なの。『これはこうなので、こういうことになります』みたいな喋り方を論理的って言ったりするでしょ?あれは喋り方が論理の形式に沿っているからね」

 

ゆるふわ先生「なんか、論理学ずっとやってれば論理的に話せるようになりそうだな……」

 

ばじるちゃん「そりゃあ論理学って言うくらいなんだから、やらないよりは格段にマシでしょうね。で、このアリストテレスが発明した論理学なんだけれど、どれくらいの強度をもってたと思う?」

 

ゆるふわ先生「強度っていうと?」

 

ばじるちゃん「つまり、どれだけの期間批判されなかったかってこと」

 

ゆるふわ先生「うーん……紀元前だし500年くらい?」

 

ばじるちゃん「フッ」

 

ゆるふわ先生「いや何も鼻で笑わなくても。じゃあ1000年くらいかな」

 

ばじるちゃん「ざっと20世紀よ」

 

ゆるふわ先生「2000年wwww なげえ……」

 

ばじるちゃん「ここで一気にフレーゲまでジャンプするわ。アリストテレス以来の論理学は特に大きな批判を受けることもなく、中世以降もずっとそのままの形で教えられていた。でも、近代に入ってから、数学者たちによってメスを入れられることになる」

 

 

 

 

ばじるちゃん「そもそもフレーゲがしたかったのは数学……これまでの算術体系を論理学へと還元することだったの」

 

ゆるふわ先生「数学を論理学に還元?なんか面倒くさそうなことするね」

 

ばじるちゃん「その感想が、アンタがノコッチであることを明晰かつ判明に示しているわね」

 

ゆるふわ先生「馬鹿にされたのは分かる」

 

ばじるちゃん「ご名答。フレーゲの試みの背景には19世紀末に登場した非ユークリッド幾何学があると言われているわ」

 

ゆるふわ先生「非ユークリッド幾何学……」

 

ばじるちゃん「体重が21g軽くなりそうな顔しないの。そうね、普段学校で習う幾何がユークリッド幾何学に基づくものである、ってことくらいは知ってる?」

 

ゆるふわ先生「勿論知りません」

 

ばじるちゃん「うん、つまり三角形とか円とか直線みたいな『普通の』幾何学ユークリッド幾何学ってことね。ちなみにユークリッドは巷で良く聞く『学問に王道なし』を初めに言った数学者よ。まあ彼の場合は『幾何学に王道なし』と言ったそうだけれど」

 

ゆるふわ先生「えっと、つまり、普段学校ではユークリッド幾何学を習うけど、そうじゃない非ユークリッド幾何学が出たのが問題と」

 

ばじるちゃん「そういうこと。非ユークリッド幾何について知りたい場合は下記を参照してね。信憑性の欠片もないソースだけど、書かれていることは分かりやすいはずよ。

 

dic.nicovideo.jp

 

まとめると、この記事に書かれてるように、これまでの幾何学の態度……『俺がルールブックだ』って態度が露呈したことで、数学そのものの信頼性が揺らいでしまったってわけ」

 

ゆるふわ先生「数学って厳密な学問だと思ってたけど、信頼性が揺らぐとかあるんだな……」

 

ばじるちゃん「そうね。だからこそフレーゲは、数学の定理を論理学的手法を用いて導出しようと考えた。厳格で厳粛で厳密な体系を、もう一度作り上げるためにね」

 

ゆるふわ先生「その結果アリストテレスの論理学がdisられたと」

 

ばじるちゃん「数学を論理学的手法を用いて導出するためには、当然論理学を調べなおす必要があるわ。その過程で、フレーゲアリストテレス以来の論理学……【伝統論理学】に問題があることを発見したの」

 

ゆるふわ先生「どんな問題だったの?」

 

ばじるちゃん「伝統論理学では量について扱うことが出来なかったのよ。例えば、誰かがノコッチをしばくとしましょう」

 

ゆるふわ先生「そういう例えよくないと思う」

 

ばじるちゃん「このとき、『誰かがノコッチをシバいている』は『ノコッチが誰かにシバかれる』と置き換えても問題ないわ」

 

ゆるふわ先生「大有りだと思う」

 

ばじるちゃん「一方で、誰もが誰かをシバいているとする」

 

ゆるふわ先生「グロスギル」

 

ばじるちゃん「すると、これを置き換えると『誰かが誰もからシバかれる』ということになるんだけれど……これって変じゃない?」

 

ゆるふわ先生「……まあ確かに、『誰もが誰かをシバいている』だと1vs1って感じだけど、『誰かが誰もからシバかれる』だと1人がよってたかってボコボコにされてるね」

 

ばじるちゃん「そう、これが量に関する問題。そしてこの問題を、伝統論理学では解消することが出来なかった。さっきの三段論法

①A=B

②B=C

③ゆえにA=(B=)C

を思い出して。これは全部、前後を置き換えても、つまり①A=Bを①B=Aに置き換えても意味が同じになっていたでしょう?」

 

ゆるふわ先生「その①-②-③の形式では、前と後ろを逆にしても意味が変わらないことが前提だった。だからこそ、『誰かがノコッチをシバく』は扱えても、『誰もが誰かをシバいている』については扱えなかった?」

 

ばじるちゃん「『誰もが誰かをシバいている』だと意味が変わってしまうからね。これが伝統論理学の孕んでいた問題。フレーゲはこれを乗り越えて【量化理論】を生み出したの」

 

ゆるふわ先生「うーん、そう言われたら確かに、なるほどって感じがしないでもない」

 

ばじるちゃん「言われてみれば確かにその通りなんだけれど、言われるまで気付かない……【コロンブスの卵】かしら?フレーゲはさらに、伝統論理学の問題を克服したのに加えて、【命題関数】や【意味と意義の区別】についても言及していくわ」

 

ゆるふわ先生「フレーゲ頑張ってるなぁ」

 

ばじるちゃん「まあ残り2つについては、また気が向いたらね。要は、フレーゲは数学を論理学的手法を用いて導出する過程で、論理学を改良したってことが伝わればいいわけだし。ノコッチだし」

 

ゆるふわ先生「ノコッチだし」

 

ばじるちゃん「で、このフレーゲの試みなんだけれど、結局頓挫するの。それもたった1通の手紙によって」

 

ゆるふわ先生「ダメだったのかよww 折角頑張ってたのに……」

 

ばじるちゃん「フレーゲはこれについて書いた本を出版しようとする直前だっただけに、凄いショックを受けたそうよ」

 

ゆるふわ先生「僕がもしそんなことされたら手紙送ってきた奴のこと絶対ボコボコにするだろうなぁ」

 

ばじるちゃん「その手紙を送ってきた奴がラッセルなんだけれど……そうね、次はフレーゲの構想のどこに問題があったのかを見ていきましょう。俗に【ラッセルのパラドックス】と言われているところね」