ノコッチの哲学マップ

哲学に興味のある女子高生「怜奈」と普通の男子高校生「不破(あだ名はノコッチ)」が哲学について対談します

フレーゲからラッセル、ヴィトゲンシュタインへ【その2】

ばじるちゃん「どこまで話したっけ」

 

ゆるふわ先生「確か【ラッセルのパラドックス】がフレーゲをボコボコにしたってところまで」

 

ばじるちゃん「ああそうそう。そこの中身までは話してなかったのよね。まあでもその前に、少し寄り道しましょうか。【数学的帰納法】ってあるでしょ」

 

ゆるふわ先生「nとn+1番目って奴だよね」

 

ばじるちゃん「この数学的帰納法に対するジョークとして【ハゲ頭のパラドックス】というのがあるわ」

 

ゆるふわ先生「何それ斬新」

 

ばじるちゃん「言われたのは古代ギリシャなんだけれどね。髪の毛が1本もない人はハゲである。このとき髪の毛を1本足してもやっぱりハゲである。よって全ての人はハゲである」

 

ゆるふわ先生「悲しいパラドックスだなぁ」

 

ばじるちゃん「さらにトリビアルな話として、数学的帰納法という言い方自体がパラドキシカルというのもあってね」

 

ゆるふわ先生「矛盾してるの?」

 

ばじるちゃん「矛盾してるというか……そもそも数学は公理から始まって定理を導出していくシステムだから」

 

ゆるふわ先生「定理っていうと、方べきの定理とかのアレか。暗記させられたやつ」

 

ばじるちゃん「そう。公理は数学を始める上での大前提みたいなものね。例えば『点と点は直線で結ぶ事ができる』なんかがあるわ」

 

ゆるふわ先生「ふむ。で、それが数学的帰納法とどう関わってくるの」

 

ばじるちゃん「気付かない?公理という普遍的な前提から『三角形の内角の和は180度』のような定理が個別的に導かれる手法をなんといったっけ」

 

ゆるふわ先生「演繹……ああそうか。数学ってシステム自体が演繹的なのに、その中で帰納法なんて呼び名が使われること自体おかしいんだ」

 

ばじるちゃん「そういうこと。ノコッチにしては飲み込みが早かったじゃない」

 

ゆるふわ先生「まあ僕もたまにはね」

 

ばじるちゃん「よし、じゃあ寄り道終わりっ。それで話をフレーゲに戻すわけだけれど……何度も言っている通り、フレーゲは数学を論理学的手法に還元しようとした」

 

ゆるふわ先生「頑張ったわけだ」

 

ばじるちゃん「頑張ったの。そしてこの途上で、数それ自体を論理的に定義する必要が出てきた」

 

ゆるふわ先生「数それ自体を論理的に……どうにもピンと来ないけど」

 

ばじるちゃん「数学を論理学に取り込むにあたって、数そのものを見直すことになっても別に不思議じゃないでしょ?まあこれについては、そういうものだと思って流してくれればいいわ。ノコッチがラッセルのパラドックスを理解するのに必要と思ったところだけ、かいつまんで説明するから」

 

ゆるふわ先生「おけ。かいつまんで説明されましょう」

 

ばじるちゃん「で、数を論理学的に定義するんだけれど、ここで重要なのが、フレーゲが”0”を定義するにあたって【空集合】という概念を用いたことね。彼は0を、空集合の【外延】によって定義づけようとした」

 

ゆるふわ先生「空集合って、空の集合のこと?文字通りでいいなら、なんとなくイメージはつくかな。外延はちょっと意味分からんけど」

 

ばじるちゃん「外延⇔内包は抑えておきたいわね。外延は具体的な対象を意味しているわ……例えば『アホの外延はノコッチ』みたいな」

 

ゆるふわ先生「おう、なら内包についても僕を例にして説明してくれ」

 

ばじるちゃん「うーん、内包は事物に共通の性質って意味だから、ノコッチを例にするのは少し難しいな……『ノコッチの授業ノートは”浅はかな人に使われてかわいそう”という性質を内包している』って感じ」

 

ゆるふわ先生「……」

 

 

ばじるちゃん「空集合については文字通りの意味よ。イメージがついたなら取り立てて言うこともないかしら。でも敢えて具体的に言うなら『ノンケの野獣先輩』とか……いや、どちらかといえばこれは【オクシモロン】かなぁ」

 

ゆるふわ先生「汚い例えだ。オクシモロンって?」

 

ばじるちゃん「撞着語法。形容矛盾と言った方が分かりやすいかな。『明るい暗室』『小さい巨人』『賢いノコッチ』みたいなのが好例ね」

 

ゆるふわ先生「さらりとdisを混ぜるのやめーや」

 

ばじるちゃん「それからこれは余談だけど、林修か誰だったかが『有能なマルクス主義者は形容矛盾である』と言っていたわ。中々気の利いたブラックジョークじゃない?」

 

ゆるふわ先生「そもそもマルクスが誰か分かりません」

 

ばじるちゃん「だろうと思った。まあマルクスの話はまたいつか……。それで、空集合の例としては『プラチナで出来た本』なんていうのがあるかな。要は、想像は出来るけれど、該当するものがない集合のことね」

 

ゆるふわ先生「『ノコッチにデレデレなばじるちゃん』も今は空集合かな」

 

ばじるちゃん「それは想像できないから却下」

 

ゆるふわ先生「なるほどね」

 

ばじるちゃん「そしてフレーゲ空集合として『自分自身を含まない集合の集合』を挙げた」

 

ゆるふわ先生「お、なんかいきなり日本語がややこしくなったぞ」

 

ばじるちゃん「そうね。なんでややこしくなったのかと言えば集合論の話になるんだけれど……空のベン図を考えてみて。それを大量に集めても、やっぱり空のままでしょ?」

 

ゆるふわ先生「うん、0をいくら集めても0だしね。そこから何かが生まれたら逆におかしい」

 

ばじるちゃん「その大量に集めた空のベン図は、1つの大きな単位での集合になる。これが『自分自身を含まない集合の集合』ね」

 

ゆるふわ先生「うーん、納得いくようないかないような」

 

ばじるちゃん「結構ふんわりとしてるよね。頑張ってノコッチ。ここがラッセルのパラドックスの要諦にもなるから」

 

ゆるふわ先生「取り敢えず、0が集まって1つの大きな0を作ってる、みたいな認識をしてる」

 

ばじるちゃん「数学を論理学で再構築してるのに、数学に返るのはどうなんだって気もするけれど……まあノコッチだしいいか。とにかく、フレーゲ空集合として『自分自身を含まない集合の集合』を挙げ、後にその矛盾をラッセルから指摘されることになる」

 

ゆるふわ先生「『自分自身を含まない集合の集合』って矛盾してるんだ」

 

ばじるちゃん「ラッセルがフレーゲに送った手紙があるから、それの訳文を見てみましょうか」

 

ωを、『それ自身に述語づけられない述語である』という述語だとします。このとき、ωはそれ自身について述語づけられるでしょうか。いずれの答えからも、その反対が帰結します。それゆえ、ωを述語ではないと結論せざるを得ません。同様に、自分自身を要素として持たないような集合の、(一つの全体としての)集合というものも、存在しません。このことから、ある状況では、確定した集合が一つの全体を形成しないことがある、と私は結論します。

 

ゆるふわ先生「使われてる言葉は難しくないのに、言ってる意味が全然分からん。述語づけられない述語ってなんだよ。3行でおk」

 

ばじるちゃん「うん、一応載せてはみたけど、やっぱりノコッチには難しいよね。『述語づける』の述語は、普通に主語―述語における述語のことよ。例えば、

 

昔むかし、ジャングルの奥地にダンシングフィッソン族という民族がいた

 

これは主語が『ダンシングフィッソン族という民族』、述語が『いた』。『ジャングルの奥地に』は修飾語ね。他にも、

 

リンゴが熟している

 

は主語が『リンゴ』、述語が『熟している』になるわ」

 

ゆるふわ先生「述語づけるっていうのは『ダンシングフィッソン族』に『いた』をくっつけたり、『リンゴ』に『熟している』をくっつけたりするってことか。要は説明するってことなのかな」

 

ばじるちゃん「『述語=説明すること』と定義しちゃうと、じゃあ修飾語はなんだって話になるわよ」

 

ゆるふわ先生「う、確かに」

 

ばじるちゃん「まあ大まかなニュアンスは当たってるんだけれどね。論理学の祖アリストテレスに倣って言えば、述語は『AはBである、におけるB』ということになるわ」

 

ゆるふわ先生「ふむ。述語の意味はなんとなく分かった。でも結局、このパラドックスはなんて言いたかったんだろう」

 

ばじるちゃん「いい?ちゃんと聞いててね。まず、ラッセルは最初に、ωは『自分自身に述語づけられない述語である』と言ってる」

 

ゆるふわ先生「言ってるね」

 

ばじるちゃん「ということは、ほら、

ω は 自分自身に述語づけられない述語 である

A   は         B         である

ここでωの述語は『自分自身に述語づけられない述語』になるでしょ」

 

ゆるふわ先生「Aの述語がBになるのと同じ理屈か。確かに」

 

ばじるちゃん「でも、定義からωは述語づけることができない」

 

ゆるふわ先生「……おお。ωは自分自身に述語がつかないと定義されたはずなのに、述語がついてる」

 

ばじるちゃん「そう。そしてこの述語を『集合』と置き換えても同じことが言える。0を論理学的に定義するにあたって生じるパラドックス。これこそがフレーゲの偉大な試みを基底から葬り去った、ラッセルのパラドックスよ」

 

ゆるふわ先生「フレーゲ頑張ったのになぁ」

 

ばじるちゃん「ちなみに、数学の盤石な地位を築こうとする動きはフレーゲ以外にもあったの。【ヒルベルト・プログラム】と言うんだけれど」

 

ゆるふわ先生「なんかクソ格好いい名前だ。SFに出てきそう」

 

ばじるちゃん「ヒルベルトという数学者が、数学の完全性と無矛盾性を示そうとして……まあこれも【ゲーデル不完全性定理】によって棄却されるわ。フレーゲの試みに対して、ラッセルのパラドックスが死亡宣告書になったようにね」

 

ゆるふわ先生「ゲーデル不完全性定理ヒルベルト・プログラムといい、さっきから一々格好いいぞ。聞いただけでワクワクしてくる」

 

ばじるちゃん「中身は難しいけれどね。ノコッチが理解できるのかなー……。でも、これもいつかやりたいなぁ」

 

ゆるふわ先生「分かるように説明してくれればいいんだよ。で、ここまででラッセルのパラドックスが終わったわけだ」

 

ばじるちゃん「そうね。次は論理学の手法を哲学に持ち込んだ、ヴィトゲンシュタインについて見ていきましょう」